溟海のイル 〜蒼き少女と亡国の王子が、SAN値を代償に臆病者を「英雄」に仕立て上げた理由〜

セキド烏雲

S-1 臆病者の都

※物語を読み進めるにあたって

◆この物語は群像劇の要素を含むため、様々な視点から物語が紡がれます。各話の冒頭や場面転換時に「場所情報」と「視点情報」を記載しますので、読み進める際の参考としていただければ幸いです。

◆初登場の人物や、その言葉を強調したい時は《》で示します。(結構適当です)

◆本作には、仄かなホラー感のほか、暴力、グロテスク、性的な描写があります。 合う方は、ぜひお付き合いください。


1章 潮風の街編



バイレスリーヴ/元首の館/書庫【視点:臆病者オリアン】


「――その名を全て呼んではいけない」


 僕は、革表紙の古い手記を開いた。


 角が擦り切れ、紙は黄ばんでいる。誰が書いたのか、名前は記されていない。ただ、冒頭にそう記されているだけだ。


『奴らは私を狂人だと言う。憐憫と恐怖の混ざった、あの忌々しい目で。だが違う。狂っているのは私ではない。この世界の方だ』


 手記の文字は、最初は整然としている。


 だが、ページを進めるごとに乱れ、歪み、最後には判読不能な殴り書きへと変わっていく。


『太陽は呪わしく、空気は腐った雑音に満ちている。こんな無秩序な陸(おか)にいるくらいなら、いっそ――』


 僕は、その言葉に深く共感していた。外の世界は、僕にとってあまりに眩しく、騒がしく、残酷だ。


 街の人々は僕を「臆病者」と嘲笑い、チンピラたちは僕を袋叩きにする。ならば、この静かな書庫に閉じこもり、本の中だけで生きていく方が、どれほど平和だろうか。


『聞こえる。脳の奥を掻き回す呼び声。深蒼の闇が、私の視界を、思考を、存在すべてを塗りつぶしていく』


 深海神、禁忌の存在。


 5年前、僕はこの街で幅を利かせている《ブーア》とその一味に因縁をつけられボコボコにされた。その時、僕は街の狂信者ダンラとともに、この神を呼び出す儀式をしようとした。復讐のために。


 だが、すぐに思い直して手を引いた。今思えば、あれは黒歴史だ。ただ、それでも、僕は未だに、この神への不思議な憧れを持っている。


『恐怖ではない、これは救済だ。境目が消える。溶ける。私は、私ではなくなる』


 手記の筆跡は、ここから急激に乱れていく。


『狂っているのは私じゃない。だから私は、その禁忌の音に縋り、求める。溟海こそ、真実の世界……ル……ヌ…………あ。あ?あ、ア、あ……目が、う。視られテる。ミてル。視、て、ぇ、ェ、ェ、ェ…………』


 そこで、手記は途切れている。


 僕は、祈るようにゆっくりと手記を閉じた。


 革表紙の冷たい感触が指先から離れても、物語の余韻は粘着質に全身を包み込んでいる。


(この人は……最後に、救われたのだろうか)


 そう思った瞬間、何かがざわめいた。だが、その気配は波が引くように唐突に消え失せた。


「……なに、今の……?」


 我に返り、周囲を見渡すが、そこにはいつもの静寂があるだけ。


(読書の余韻か)


 僕は狐につままれたような気分で、手記を本棚に戻した。窓の外からは、赤い夕日の光が差し込んでいる。


 その途端、罪悪感と自己嫌悪が、胃の底から湧き上がってきた。


(またやってしまった……)


 今日も部屋から一歩も出なかった。僕が引きこもり始めて5年。ずっとこんな調子だ。


 だけど、裏を変えせば、僕は自分の身を守っているのだ。何故なら、僕を虐めるブーア達は、父がこの国を治めている限り、この館に立ち入ることは出来ないから。


 そんなことを考えていると、廊下から小走りするような慌ただしい足音が聞こえた。


 ガチャ


 ノックもなく、使用人が扉を開けた。


「オリアン坊ちゃん!!」


 久しぶりに顔を合わせた使用人の顔は、青ざめていた。


「旦那様が……亡くなられました」


「……へ?」


 その瞬間、僕の世界が音を立てて崩れ始めた。





バイレスリーヴ/潮風通り【視点:世界(観測者)】


 潮風が運ぶ、海と香辛料の匂い。


 辺境の小国バイレスリーヴ。


 頭上から降り注ぐ陽光は暴力的でさえあり、大通りの石畳は真珠のように白く輝いて視界を焼く。両脇には色とりどりの花々が飾られた白い漆喰の建物。その上を覆うテラコッタ色のレンガ瓦が、太陽の熱を孕んで街全体を暖炉のように揺らめかせていた。


 極彩色の喧騒。港の市場では、鮮やかな布を身につけた商人たちが声を張り上げ、異国の品々が溢れかえる。帆船の上では、陽気な船乗りたちが歌い踊り、昼間から酒を酌み交わしている。


 その圧倒的な「生」の渦中を、一人の少女が歩いていた。


 彼女は、あまりに浮いていた。


 その肌は陽光を透かす白砂のように無機質で、腰まで届く髪は、最高純度のサファイアを砕いて星空に撒いたような、深く、鮮やかな蒼色が煌めいていた。


 すれ違う誰もが、その異質な美しさに足を止める。


 だが、彼女の黄金の瞳は、周囲の視線など気にも留めていなかった。まばゆい光を反射する海面、色とりどりの果実、人々の笑顔。そのすべてを、まるで万華鏡のようにキラキラと映し込み、吸い尽くそうとしていた。


「……きれいな街」


 こぼれ落ちた言葉は、どこまでも純粋で、嘘のない感嘆の響きを帯びていた。彼女はその異質な外見とは裏腹に、目の前に広がる人間の営みと、極彩色の景色に心底魅入っていたのだ。


 彼女は潮風が吹き抜ける噴水広場で足を止めた。


 背後にそびえる大壁には、海の神話を描いた巨大な壁画が広がっている。彼女は吸い寄せられるように、その「捕食の光景」に見入った。


 巨大魚が海原を泳ぎ、人の手足を持つ海獣が人魚を捕食する図画。さらに下には、魚の顔を持つ四足の人が魚を捧げ、海の怪物を崇めている。


 そして絵巻の最下部、深海にあたる部分には、不気味に広がる触手が全ての生命を苗床として呑み込もうとするかのように、異様な存在感を放っていた。


「……いい絵だろ?まもなく、この街もこうなる」


 背後からのしわがれた声。振り返ると、ぎょろぎょろとした大きな目をした、痩せこけた老女が立っていた。手には《深海神の復活で世界は蘇る》と刻まれた木板を抱え、小刻みに揺らしている。


「余所者かい?……なら、いい時に来たねぇ。もうすぐ『見世物』が拝めるよ」


 老女は歪んだ笑みを浮かべ、崖の上にそびえる元首の館を指さした。


「あの館に巣食う『臆病者の豚』が、引きずり出されるのさ。《決闘大会(クレイヴァート)》という名の処刑台にね!」


 蒼い髪の女は静かに耳を傾けていた。その表情は風に揺れる水面のように穏やかで、言葉を遮ることはない。


「先代の元首様は、まぁ立派な方だったが……その一人息子ときたら、とんでもない能無しさ!」


 老女の口元が、これ以上ない軽蔑で歪んだ。


「世間知らずな碌でなし。あたしはねぇ、アイツをよく知ってるんだ。だから言えるのさ!臆病者のあいつは元首にゃ全く相応しくないとね!ひっひっひ!」


 老女の言葉には、隠しきれない悪意と愉悦が混じっていた。


「おお、そうそう。そなたに《深海神》のご加護g……」


 老女は木板を置き、祈ろうとして、ふと動きを止める。


「……視(み)てた」


 その瞬間、イルの蒼髪が、まるで水中の海藻のように、わずかに揺れた気がした。風はないのに。


「……?よくわかんないけど、ありがと」


 女は不思議そうに小首を傾げると、その場を離れた。背中に張り付く老女の視線を感じながら。





バイレスリーヴ/潮風通り【視点:蒼髪の少女イル】


『イル。……あの老婆、薬物中毒症状が出てますね』


 私の内で、少年の声が響いた。


『なにそれ?』


『人の精神状態を侵す薬物です。変わった匂いがするはずですが……気づきませんでしたか?』


『えー全然。ルトの鼻は優秀だね』


『はは。僕の嗅覚は当の昔に死んでます』


 呆れたような声が響く。霊体の彼、ルトハール・ベオ・イスカリア。通称ルト。私に憑依する、とある国の王子だった少年。


​『それより、決闘大会(クレイヴァート)というのが気になりますね。「元首になれる」と言っていました。この国の統治者を決める、野蛮な儀式か何かでしょうか』


​『へー、楽しそうじゃん!どうする、ルト。見てく?』


​『まぁ……』


​ルトは、少し勿体ぶった間を置いてから言った。


​『野蛮ですが、この国のことを知るには手っ取り早い。あくまで「視察」としてなら、付き合ってあげなくもありません』


​『ふーん。素直に「面白そうだから見たい」って言えばいいのに。ほんと、いちいち理由をつけないと動けないひねくれ者だなぁ。王子様は』


​『なっ……!?ち、違いますよ!僕はただ、効率を重視しているだけで……!』


​『ふふっ。顔、赤くなってない?』


​『うるさい!もう口をききません!』


 ​頭の奥で拗ねて黙り込む気配を感じて、私は思わずニシシと笑った。


 彼の霊体は、私の身体と強固に結びついてて、引き剥がせない。何をするにも一緒。厄介な同居人。


 寛容な私も、四六時中一緒は流石に疲れる。


 私はそんな彼を身体の中か追い出す手がかりを探すため、ルトをいじるのも程々に、歩みを進めた。




【あとがき】

第一話を読んでいただきありがとうございます。

この物語では、多くの登場人物が活躍します。

作者が人物像をイメージするために作成したキャラのラフ画(顔のみ)を、AIで完成させたイラストが手元にあります。これを読者さまにお見せできたら…と考えています。(作成工程にAIが含まれているため悩みどころですが…)

それはそれとして、この物語は現在執筆中ですが、ある程度は完成が見えています。気長にお付き合い頂けましたら幸いです。

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