第13話
汚泥の施し事件以来、私は誰とも目を合わせられなくなっていた。
神殿の回廊を歩けば、すれ違う神官たちのひそひそ話が聞こえる気がした。「あれが堕ちた聖女だ」「疫病神」。
周囲のざわめき、視線、その全てが私を責め、私の肌を刺す無数の棘のように感じられた。
そんな孤立を深める私の自室に、一人の客が訪れた。
幼い頃から私を知り、聖女として祀り上げられてからも、唯一「ソフィア」と名前で呼んでくれる親友、リアだ。
「ソフィア……。入るよ」
リアは私の顔を見るなり、悲痛な表情を浮かべた。私は反射的に背筋を伸ばし、聖女としての仮面を被ろうとしたが、リアはそれを許さなかった。
「ソフィア。あなた、最近おかしいよ。顔が能面のように硬い。まるで、自分自身を騙しているみたい」
リアは私の冷え切った両手を取り、真剣な眼差しで私を見つめた。その手の温もりが、私の凍りついた心にじわりと伝わり、かえって痛かった。
「リア、離して。私は……」
「離さない。聞いて、ソフィア。ダカラ村のことも、老人の家のことも、あなたのせいじゃない。それはただの不幸な事故か、自然現象よ。だけど、あなたはそれを全部背負い込んで……無理やり『神の試練』だって、自分を納得させているでしょう?」
図星だった。
リアの言葉は、私が必死に積み上げた論理の隙間を突き、心の奥底にある「不安」という名の蓋を激しく揺さぶった。
やめて……! その言葉は毒よ。私が間違っていると認めてしまえば、私は崩れ去ってしまう!
「違う! この温かさに負けてはいけない!」
私は心の中で叫び、恐怖に駆られるように、親友の手を乱暴に振り払った。
「ッ……!」
リアが驚いて目を見開く。
私は彼女を睨みつけた。いや、睨みつけることでしか、自分を保てなかったのだ。
「リア、貴方は信仰心が足りません」
私の口から出た声は、まるで氷のように冷たかった。
「最近、聖教国では私の行いを妬む異端の噂が流れています。貴方はその悪しき影響を受けているのです。私の孤独は、神が私に望まれた高潔な試練。俗世の感情で私を惑わさないでください」
「ソフィア……何を言っているの? 私はただ、あなたを心配して……」
「貴方も、私から離れなさい。神聖な試練の邪魔をするなら、親友であろうと容赦はしません」
私は扉を指差した。
リアは、私のあまりの変わりようにショックを受け、言葉を失っていた。やがて、その瞳に大粒の涙を浮かべ、震える声で「ごめんね」と呟いて部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、重く響いた。
「これでいい。誰も私を理解しなくていい。私の孤独は神聖なものだ。神だけが私を見ていてくださる」
私は自ら孤立を選んだ。震える膝を抱え、必死にそう思い込む。しかし、心の奥底では、唯一の理解者を突き放したことへの激しい罪悪感と自己嫌悪が、消えることのない炎のように燃え盛っていた。
◇
その日の夜。高齢で実権のない教皇様が、私の精神状態を案じ、私を神殿の最奥にある懺悔室へと呼んだ。
薄暗い部屋の中、格子越しに教皇様の老いた、しかし優しい声が響く。
「ソフィアよ。お前の心は安らかか?最近の出来事は、お前の若き肩にはあまりにも重すぎたのではないか。無理をしておらぬか?」
その慈悲深い声に、私は一瞬、子供のように泣き崩れたい衝動に駆られた。「辛いのです、助けてください」と言ってしまいたかった。
だが、すぐに頭の中で防衛本能が働いた。
弱音を吐いてはいけない。苦しみを認めることは、神の試練から逃げることだ
私は喉まで出かかった嗚咽を飲み込み、代わりに狂信的な言葉を吐き出した。
「教皇様。ご心配には及びません。これは全て、異端の者の暗躍と、神が私に与えた至高の試練なのです」
私は自分の内なる不安や焦りを、全て「外部の敵」と「神の崇高な意志」のせいにした。そうすることでしか、自分の正気を保てなかった。
「ダカラ村の失敗も、老人の家が燃えたことも、汚泥にパンが落ちたことも……全ては神が私に『真の信仰』を試しておられる証拠。私は、神の御心を乱す異端者と戦い続けます! この苦しみこそが、私の正しさの証明なのです!」
格子越しに、教皇様が息を呑む気配がした。私の言葉に含まれる異常な熱量と、その裏にある危うさを感じ取ったのだろう。
「ソフィア……お前は……」
教皇様が何かを諭そうとした、その時だった。
懺悔室の入り口から、静かで、しかし威圧感のある声が響いた。
「教皇様。ソフィア様は既に、我々凡人には理解できない神の領域にあるのです」
聖騎士カイルだった。
彼は音もなく私の背後に立ち、優しく私の肩に手を置いた。
「彼女の魂は、あまりにも純粋で高潔。今の苦難は、彼女がさらに高みへ至るための儀式のようなもの。教皇様といえど、あまり深く詮索なさいませんよう」
カイルは、優しく、しかし有無を言わさぬ力で教皇様の行動を牽制した。
教皇様は、カイルの言葉に圧倒されたのか、それとも私の拒絶を感じ取ったのか、深く溜息をつき、それ以上何も言わなかった。
私はカイルの手に安堵を覚えた。彼だけが、私のこの「正しい狂気」を肯定してくれる。
◇
その深夜。
私は自室の祭壇の前で、義務的な祈りを繰り返していた。
「神よ、我を導きたまえ。神よ、我を導きたまえ……」
以前のような魂のこもった熱い祈りではない。ただ同じ言葉を、呪文のように機械的に呟くだけ。そこには悲しみも喜びもない。あるのは、感情が抜け落ちた空虚な時間だけだった。
その静寂を切り裂くように、神殿全体に緊急事態を知らせる鐘が鳴り響いた。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!!
不吉な音色が、私の祈りを中断させる。
「ソフィア様!大変でございます!」
扉が勢いよく開かれ、騎士団長レオナルドが血相を変えて飛び込んできた。普段冷静な彼が、兜もつけずに息を切らしている。
「何事ですか、騒がしい」
私は努めて冷静に振る舞おうとした。
「緊急報告です!セントリア王国との国境付近に発生したSS級ダンジョンが、たった今、ダンジョンブレイクを起こしました!」
「SS級……!?」
私は立ち上がった。SS級といえば、国家存亡に関わる災害級だ。
「ダンジョンの崩壊により、大量のモンスターが溢れ出し、国境を越え、周辺の村落に殺到しています! 被害予測は甚大です!」
「場所は……場所はどこなのです!?」
嫌な予感が、背筋を駆け上がった。国境付近。そこにあるのは――。
「トンゴ村周辺です!」
「あ……」
私の全身から、一瞬で血の気が引いた。指先が冷たくなる。
トンゴ村。私の生まれ故郷。そして、お父様とお母様がいる場所。
「そんな……嘘よ……」
ダンジョンブレイクが起きれば、あの平和な村は一瞬で蹂躙される。
私の頭は、瞬時に過去の記憶と結びついた。かつて、私が間に合わなかったあの日の絶望。炎、悲鳴、そして瓦礫。
「すぐに、騎士団を出します! 総員、出撃準備を!」
私は焦燥に駆られ、叫ぶように命令した。これは「試練」などという悠長なものではない。現実の危機だ。
しかし、騎士団長は苦渋の表情で首を振った。
「ソフィア様。騎士団の派遣では、距離がありすぎて間に合いません。先行部隊が到着する頃には、村は……」
「では、どうすればいいのですか! 見捨てろと言うのですか!」
「いいえ!あそこを救えるのは……ソフィア様の祝福だけです!貴方様の広域転移と浄化の光ならば、間に合います!」
「私の……祝福……」
私の心臓が、早鐘のように激しく脈打った。
最近、不発や不幸ばかりを招いている私の力。
だが、迷っている時間はない。
これは試練?神の意志?いいえ、そんなことはどうでもいい!
私が積み上げてきた信仰の理屈など、一瞬で吹き飛んだ。
そこに残ったのは、ただの娘としての、切実な願いだけ。
「私の愛する家族が、今、危険に晒されている!」
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