第3話:青粘菌コロニー


十二月二十四日。

決戦の日がやってきた。

私は午後から半休を取った。

美容院に行き、白髪染めとトリートメントをした。

ネイルも新しくした。ベージュピンクの、控えめだけど手入れされた色。

そして、デパートで新しいワンピースを買った。

体型を拾わない、でもウエストラインが少しだけ絞られた、上品なネイビーのニットワンピ。

鏡に映る自分を見る。

「……悪くない」

四十五歳。目尻の皺も、フェイスラインのたるみも隠せないけれど。

それでも、誰かのために装うという行為が、私に少しだけの自信と潤いをくれた。


待ち合わせは、十九時に駅前の時計台の下。

ベタだ。昭和のトレンディドラマ並みにベタだ。

でも、彼は「分かりやすいから」と言った。

スマホがあるのに。


五分前に到着すると、彼はもういた。

ダウンジャケットを着て、マフラーをぐるぐる巻きにして、紙袋を両手で抱えている。

寒さのせいか、緊張のせいか、その場で行進するように足踏みをしている。

くまのプーさんみたいだ。


「あつこさん!」

私を見つけると、彼は弾かれたように駆け寄ってきた。

「あ、あの! 綺麗です! すごく!」

「……ありがとうございます。田中さんも、そのマフラー素敵ですね」

「えっ、これ? 娘が選んでくれたんです!」

また娘か。

まあいい。今日だけは許そう。


「これ、約束のシュトーレンです!」

彼は恭しく紙袋を差し出した。

ずっしりと重い。

包装紙は、デパートのものではなく、百均で買ったと思われるサンタ柄。

リボン結びが縦になっている。不器用さが愛おしい……と思おうとした。


「ありがとうございます。家に帰ってから開けますね」

「はい! ……あの、自信作なんで!」

彼の鼻の頭が赤い。

自信満々だ。

一週間、大事に「熟成」させた結晶だ。


私たちは、彼が予約してくれたレストランへ向かった。

「ちょっと奮発したんです」

彼が連れて行ってくれたのは、駅ビルの中にあるイタリアンだった。

「奮発」と言っても、チェーン店よりはマシ、くらいのカジュアルな店だ。

でも、彼なりに一生懸命選んでくれたのが分かった。

席は窓側。夜景(といっても、駅のロータリーとパチンコ屋のネオンだが)が見える。


「メリークリスマス」

グラスのスパークリングワインで乾杯した。

「美味しいですね」

「はい、あつこさんと飲めるなんて、夢みたいです」

彼は本当に幸せそうだった。

料理も、そこそこ美味しかった。

会話も弾んだ。

パン教室での失敗談、私の仕事の愚痴、彼の娘の自慢話。

途切れることなく続く会話。

無理して沈黙を埋めようとする必死さもなく、自然なリズム。

居心地がいい。

元婚約者と一緒にいた時は、常に気を張っていた。

「いい女」でいなければならなかった。

でも、田中さんの前では、私はただの「あつこさん」でいられた。

肩の力が抜けていくのが分かった。


「……あつこさん」

デザートのティラミスを食べ終えた頃、彼が改まって言った。

「はい」

「僕、あつこさんのことが……」

心臓が跳ねる。

来るか。

告白、来るか。


「……大好きです」

直球だった。

変化球なしの、ど真ん中ストレート。

四十代後半の男が、公共の場で「大好き」と言う破壊力。

顔が熱い。

「……ありがとうございます」

「あの、もしよかったら……」

「はい」

「これからも、一緒にパン作ったり、ご飯食べたり……その、老後まで」

老後。

プロポーズの言葉に「老後」が入るのは、中年恋愛の特権だ。

「……ふふっ」

私は笑ってしまった。

「老後まで、ですか」

「あ、早すぎました!? すみません!」

「いいえ。……こちらこそ、よろしくお願いします」

「えっ、本当ですか!?」

「はい」


彼は泣きそうになっていた。

眼鏡の奥の目が潤んでいる。

「よかった……本当によかった……」

彼はハンカチで目頭を押さえた。

私も、少し目頭が熱くなった。

ああ、幸せなクリスマスだ。

こんなに穏やかで、温かいクリスマスは久しぶりだ。

このまま、この幸せな気分のまま、一日が終わると思っていた。


店を出て、駅で別れた。

「シュトーレン、感想聞かせてくださいね!」

彼は大きく手を振って見送ってくれた。

「はい、楽しみにしてます!」

私も手を振り返した。


家に帰り、私は高揚した気分のまま、コートを脱いだ。

暖房を入れ、ココアを入れる。

そして、テーブルの上に置いた紙袋を手に取った。

サンタ柄の包装紙を丁寧に開ける。

中から出てきたのは、ラップに包まれた、重厚なシュトーレン。

粉糖がたっぷりとかかっている。

「……結構、本格的じゃない」

私は感心した。

一週間、彼が思いを込めて作ったシュトーレン。

ナイフを取り出し、ラップを剥がす。

甘い香りが……

いや。

甘い香りの奥に、何か別の匂いが混じっている。

ツンとした、湿った匂い。

カビ臭い?


まさか。

私は目を凝らして、シュトーレンの表面を見た。

粉糖の白さの下に。

明らかに、異質な色が混ざっている。

青緑色の、ふわふわした斑点。

一つじゃない。

あそこにも。ここにも。

裏返してみる。

底面には、びっしりと青いコロニーが形成されていた。


「……嘘でしょ」

声が震えた。

一週間。

彼は言っていた。「熟成させます」と。

常温で?

暖房の効いた部屋で?

あるいは、湿度の高い場所で?

衛生管理の知識ゼロの素人が、生焼けかもしれない生地を、一週間放置したらどうなるか。

答えは目の前にあった。


生物兵器だ。

これは、愛の結晶ではなく、菌の培養土だ。


スマホが鳴った。

田中さんからだ。

『あつこさん! 家に着きましたか? シュトーレン、どうですか? 美味しいですか?』

無邪気なメッセージ。

スタンプは、ハートを飛ばすクマ。


私の天国は、一瞬にして崩れ去った。

どうする?

「カビ生えてます」って言う?

さっきのあの幸せな空気、彼の泣き顔、老後への誓い。

全部、この青カビが飲み込んでいく。

私は震える手で、カビたシュトーレンを見つめ続けた。

吐き気がした。

それは、カビのせいだけじゃなかった。

こんなオチを用意していた神様と、田中さんのポンコツぶりへの、絶望的な吐き気だった。

私のクリスマスは、まだ終わっていなかった。

ここからが、本当の地獄の始まりだったのだ。

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