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  • 読了に当たって、こちらの作品へのフィードバックをしようと思います。

    今回の課題点は

    ・説明をしない
    ・話の筋がわかりづらい
    ・エンタメ性が弱い

    の三つでしたので、今回はこの三つに絞ってお話ししようと思います。

    一応私自身も脚本術を学び、様々な作品を見てきた経験の側面が強いため、あくまで個人の意見としてお聞きください。



    ではまず、説明をしないという点を、脚本術とラノベのセオリーの両方の側面から考えてみましょう。

    脚本術にはShow, don't tell(語るな、見せろ)という言葉があるのは、アタオカシキ様もよくご存知のことだと思います。
    この作品においてもかなり意識されていて、例えば藤原という名前で平安に近い時代であることが一発で分かりますし、住民の反応が淡白なことで野犬や龍がいるのが当たり前である世界であることも読者にすぐ伝わります。

    ここから分かるのは世界観の説明に問題があるのではなく、主人公が今どこにいるか分からないから説明不足に感じるということです。

    例えば

    "わたしは巻子本(まきもの)を手に、あぐらをかく藤原様の前に座した。

     物語を作れと、御拝命をいただいている。
     その成果を聞いていただくため、腹から声を出した"

    ここの描写から、部屋の暗さや部屋の広さは伝わりません。
    ここで部屋の暗さや広さの描写があれば、心理描写をしなくても澄恵が心理的に追い詰められていることが表現できます。

    "寺へ帰りながら、千年先も残る立派なものを考える。あちこちに転がっている犬の野糞を、あえて輪郭にそったぎりぎりのところを歩く。そうすると、自然と考えることだけに集中できる"

    ここで道の不安定さがあるか、それとも整理された一本道に障害物があるのかで、足元が覚束ないのか、回り道をさせられているのかという意味が変わってきます。

    細かく書かなくてもというのは、シーンが変わるときや主人公が移動したときにどんな部屋(畳の上であることや、蝋燭の灯りなどで暗さが明言されている)なのかがどこかで一度説明されるだけでもかなり効果があると踏んだからです。

    ではラノベのセオリーから見るとどうか?

    これはラノベの走りとなる作品が生み出した暗黙の了解……というよりは作風として、自意識過剰な主人公の内省を通して世界を理解するエンタメということです。
    特に一人称のラノベで説明過多になるのは、ここが理由だったりします。

    つまり良いラノベとは、共感性羞恥を感じないようにしつつ、内省に共感できる状態を維持できる作品ということになります。

    この作品がラノベらしくならない理由の一つが、アタオカシキ様の作風としてこの内面描写がかなり削ぎ落とされていることにあります。
    そしてこれ自体が文章表現として悪いわけじゃないことももちろん理解しております。

    これはどこのシーンが具体的に該当するかというより、ラノベと脚本における内面描写という言葉に含まれる設計思想の違いが影響しています。

    例えば脚本術において、登場人物が内面をベラベラと喋るのは御法度です。
    どこのスタジオでも、そんな脚本は間違いなくボツになるでしょう。
    しかしラノベはここが逆です。
    脚本なら行動による心理描写が高く評価されますが、ラノベにおける内面描写とは主人公が世界をどう解釈しているかという認識の誤りも含む主観のことを内面描写と呼んでいます。

    例外もありますが、しかしその例外というのは三人称であったり、内省描写のなさを補ってあまりある魅力的な登場人物や世界観が提示されているといった、読者に対してまた別の満足感が与えられる場合です。


    続いて話の筋が分かりづらいという点を、脚本術とラノベのセオリーの両方の側面から考えてみましょう。

    脚本術的に見れば、この作品のプロットは昔話における『舌切り雀』に非常に酷似しています。
    なので内容を要約するなら、あまり欲張ると痛い目に遭うよ、ということです。

    つまりプロットそのものは普遍的で、複雑ではないことがここで分かります。

    しかしラノベのセオリーとして見ると、また評価が変わってきます。

    ラノベ読者が知りたいのは『要するにどういう世界の話?』ということだからです。

    もう少し分解すると、この話を読むことで自分はどんな体験ができるのだろう? という部分を読者は常に知りたがっています。

    映画で例えるなら、視聴者は魔法があることを望んでいるのではなく、魔法がある世界に入っていく体験を望んでいますし、ヒーローが生まれる瞬間を常に待ち望んでいるのです。

    しかしこれはラノベだけでなく脚本術的にも言われていることですが、主人公が危機を迎えているから共感してもらえるというのは、厳しい意見を言いますがかなり読者に甘えている状態です。

    物語における自己投影できてエンタメ性が高いというのは、どんな奴が、どんな危機に陥っているかが一発で分かる状態を指します。

    例えば怪盗ルパンは決して善人ではありませんが、世紀の大悪党が世界に一つしかないお宝を盗むスリルを楽しむ作品です。

    この物語では

    "わたしは巻子本(まきもの)を手に、あぐらをかく藤原様の前に座した。

    物語を作れと、御拝命をいただいている"

    という一文だけで、この任をしくじれば主人公の命が危ないことを読者はすぐに理解できます。
    しかし主人公がどんな人物か、という部分については提示できていません。

    ここでようやく、自己投影しやすいということが読者に近い人物ではない、という話に移ることができます。
    この自己投影の話については、エンタメ性の弱さの部分で詳しくお話しします。

    ともかく、現状ではこの澄恵という主人公が物語をちゃんと書き切るのだろう、ということしか想像ができません。
    何故ならば、命が助かる以上の報酬を澄恵は約束されていないからです。
    例えば走れメロスでは、友を救うため、王に人の心の温かさを伝えるために妹の結婚式へ参列すべく走ります。
    澄恵とメロスの差は書かされているのか、走り出したかの違いです。
    能動性の問題ですね。

    脚本術にはEnter late, leave early(遅く入り、早く出よ)という言葉がありますが、裏を返せば主人公が能動的に動くチャンスが来た瞬間こそ物語の始め時なのです。


    最後にエンタメ性が弱いという点を、脚本術とラノベのセオリーの両方の側面から考えてみましょう。

    と言いたいところなのですが、実は問題点は既に大きく分けて二つに絞られていて、

    ・主人公への共感が弱い
    ・読者への報酬の提示が薄い

    この要素に尽きます。

    ようやくエンタメにおける自己投影とは何かという本題に入りますが、自己投影にはこうでありたいという願望も含まれるのです。
    つまりこうであって欲しいという読者の欲求が満たされるかというのが、エンタメの本質なのです。
    共感できないのは論外ですが、共感だけに頼らなくても成立する作品こそ良いエンタメであると私は信じています。

    私が自作で納得を優先するのも、そういう理由があらからです。

    例えば私なら、主人公の耳が切り落とされるシーンから始めますと言ったのは、これからどうなるのかという読者の興味を最大限に引き出すもっとも簡単な方法の一つです。
    何故なら、次は確実に命を取られるという危機感が読者に植え付けられる上に、想静の優しさをすぐに読者へ見せることができるためです。

    そして四つ目のどこから集中力が途切れたかと言う質問に関しましては、『寺へ帰りながら、千年先も残る立派なものを考える』で突然、外に出たのか? と疑問を覚えた瞬間です。
    今どこにいるかが一瞬分からなくなったのもここですね。

    以上の変更点を踏まえても、総評を述べるなら『物語としては正解だが、エンタメとしては改善の余地がある』作品。
    という評価になります。

  • 面白かったです。ネタバレになるので詳細は控えますが、これほど何度も読み返した短編作品は他にないかもしれません。内容が難しいからではなく、結末を知った後でもう一度最初から辿り直したくなる、恐ろしくも魅力的な構成でした。個人的には、最後の文章のリズムや腹の探り合いは特に好きでした。

    作者からの返信

    お気遣い……ありがとうございます。

    もし内容が難しくないのであれば、心から安堵する思いです。いろいろ重要でない部分は徹底して省いたので、わからないこともあると思いますが……嬉しいです。

  • とても力づよい物語です。

    千年続く…とは。

    不思議な力を持つ言葉ですね。

    無力な者に勇気をくれる物語でした。

    作者からの返信

    わざわざすみません……
    ありがとうございます。

    いろいろ不親切なところが多いにも関わらず……