第4話 声の温度


 砂時計の中の砂が落ちきると、

 世界は柔らかく反転し、

 懐かしい街の音が、また耳に戻ってくる。

 

 でも、今回は少し違った。

 カレンダーの日付は一週間後。

 何度も戻ってきたこの部屋なのに、どこか静かすぎる。


 テーブルの上には、昨日のままのマグカップ。

 少し冷めたコーヒーの匂い。

 さきはまだ帰っていない。


 俺は仕事を終えて、帰り道にふとあの公園の前を通った。


 街灯の下、ベンチに誰か座っている。

 白いマフラーが目に入って、胸が少しだけ熱くなった。


「……しずく」


 彼女は本を読んでいて、顔を上げた。


「あ、ゆうさん。奇遇ですね」


「本、好きなんだ?」


「ええ。知らない世界を少しだけ覗けるから」


 その言葉が妙に心に残った。

 胸の奥を、そっと触られた気がした。



「今日は寒いですね」

「ほんとに。俺は、寒いの苦手なんだけどな」

「でも、寒い夜に外を歩く人って、だいたい何か考えてる時ですよね」


 彼女の声は、冬の空気よりもやさしかった。


「そうかも。……考えてること、わかる?」


「うーん。

 過去のことを思い出してる顔してます」


「そんなにわかりやすいか」


「ええ。

 でも、過去を思い出せる人は、

 それだけ置いてきたものがある人です」

 


 しずくの言葉は慰めのようで、

 同時に、心の奥を見透かされた気もした。



 ふと、ポケットの中の砂時計を取り出す。

 小さな音で、さらさらと砂が流れている。

 しずくがそれに気づいて首をかしげた。


「それ、きれいですね。

 アンティークですか?」


「いや……もらいもの。

 これがあると、間違えた瞬間に戻れる気がするんだ」


「それ、素敵ですね。

 でも、戻るより進むほうが難しいですよ」


 言葉の奥に、何か知っているような響きがあった。



 その夜、帰るとさきがリビングにいた。

 少し疲れた顔でテレビを見ていたが、

 俺の姿を見て、ほんの一瞬だけ笑った。


「今日、早かったね」


「ああ。寄り道してた」


「ふーん。珍しいね、ゆうが寄り道なんて」


 彼女の声に、微かな棘があった。

 でもその奥には、どこか安心したような響きも混じっていた。


 俺は何も言わず、コーヒーを淹れた。

 湯気の向こうで、さきがぼんやりと画面を見つめている。

 あの日と同じ距離。

 だけど、心の奥には少し違う温度があった。



 夜、ベッドに横たわっても眠れなかった。

 さきの寝息の向こうで、

 しずくの声が静かに浮かぶ。


「過去を思い出せる人は、

 それだけ置いてきたものがある人です」

 

 その言葉が、ずっと胸の奥に残っていた。

 過去を直すことじゃなく、

 過去と向き合うことなのかもしれない。

 


 窓の外、夜明け前の空が少しだけ明るくなっていた。

 その光が、どこかで笑っているように見えた。





 

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