砂時計

時雨

第1話 静かな夜に



炊飯器の音が鳴った。

テーブルの上には、二人分の味噌汁。

けれど片方は、すでに冷めている。


夜勤の準備をしながら、寝室のドアを見た。

薄い隙間から漏れる灯り。

そこに、さきの影が揺れていた。


「……行ってくる」

 

返事はない。

かすかに布団が動く音だけがした。


部屋を借りて、家具をそろえて、初めて一緒に暮らした夜。

“これからずっと”と思っていた。


でも、いつの間にか笑い声が減って、

一緒にいる時間より、いない時間の方が増えた。


仕事だからと割り切った。

でも本当は、

その言葉の陰でさきの寂しさを見ないようにしていた。



朝、帰宅した俺に、さきは静かに声をかけた。


「おつかれ」

「うん。もう出るの?」

「うん。昼、忙しいから」


二人の間に流れる沈黙。

味噌汁の湯気が、やけに重く見えた。


「最近、あんまり話してないね」

「そうかな。俺、夜だし」

「……そうだね」


さきは笑ったが、その笑顔はどこか遠かった。


夜。出勤前の玄関。

「気をつけて」と言う俺に、さきは小さくうなずく。

ドアが閉まる音が、部屋に響く。


残された食卓を見つめながら、

俺は胸の奥で、どうしようもない痛みを感じていた。


仕事終わり、夜風が冷たい。

帰り道の公園の時計は午前一時を回っていた。

街灯に照らされたベンチで、俺は缶コーヒーを両手で包みながら、

夜空の星をぼんやりと見上げていた。


昼に見たさきの表情が、まだ頭から離れない。

あの、少しだけ目を逸らした瞬間。

二人の距離感を、たしかに感じた。


「どうして……あの時、もう少し優しくできなかったんだろう」


吐き出した息が白く溶ける。

そのとき、ベンチの端から声がした。



「若いのに、寒い夜を選ぶのかね」


思わず顔を上げると、

いつの間にか隣に、杖をついた老人が腰かけていた。

灰色のコート。皺だらけの手。

目だけが、やけに澄んでいた。


「……眠れなくて」

「眠れない夜は、心に重たいものを抱えている証拠だ」


老人はそう言って、俺の缶コーヒーに目をやった。

「冷めているぞ」

「……気づいたら時間がたってました」


老人は少し笑った。

「時間というのは、気づいたときにはもう過ぎている。

 だから、人は“戻れたら”と思うんだよ」


「戻れたら……」

俺は呟いた。

「戻れたら、やり直したいことがあるのかね」


「……あります」

少しの沈黙のあと、俺は言葉を吐き出した。

「大切な人を傷つけました。

 二人のためだから仕方ないって、そう言い聞かせて……

 本当は寂しいって言葉を受け止めなきゃいけなかったのに。」


「ふむ」

老人は夜空を見上げた。

「人は、言葉よりも“沈黙”で傷つけることが多い。

 言わなかったこと、見なかったこと……

 それが積み重なって、いつの間にか心が離れていく」


俺は黙ってうつむいた。

冷たい風が髪を揺らす。


「でも、やり直せるなら……」

老人の声は静かで、まるで風に混ざるようだった。

「もう一度、あの笑顔を見たい」


「その笑顔を取り戻せば、君は満たされるのかね?」


「……わかりません。

 でも、何もしないで後悔するのはもう嫌なんです」


老人はしばらく俺を見つめたあと、

ゆっくりとポケットに手を入れた。


「ひとつ、試してみるか」


掌に置かれたのは、小さな砂時計。

銀色の縁に、淡い青の光が反射している。

中の砂が、星のようにゆっくりと輝いて落ちていた。


「これは?」

「“時間を渡る砂”と呼ばれている。

 使えば、過去に戻れる。

 ただし……心までは戻らない」


「心……?」

「どれほど時間を巻き戻しても、

 相手の“感じた痛み”は消えない。

 君がそれを理解しようとしなければ、

 何度戻っても同じ結末になるだろう」


「……それでも、やり直したいです」


老人は小さく頷いた。

「いいだろう。ただし覚えておけ。

 やり直すということは、“今”を捨てるということだ。

 今ここにある夜も、寒さも、

 すべて消える。

 それでもいいのか?」


俺は砂時計を見つめた。

手の中で淡く光る砂の粒。


俺は砂時計を見つめた。

手の中で淡く光る砂の粒。

それが落ちるたび、過去の後悔が胸に浮かんだ。


「やり直せるなら……構いません」


その瞬間、老人の表情がわずかに柔らかくなった。

どこか、懐かしそうな微笑み。


「ならば、後悔のないように進みなさい。

 ——いつか、君がこのベンチに戻ってきたとき、

 答えが見つかっていることを祈ろう」


光が強くなり、耳鳴りのような音が響く。

視界が白く染まっていく中で、俺は最後に老人の声を聞いた。


「それともうひとつ——

君が探しているものは、

君の手の中にはないかもしれない」


光の中で、俺の意識が途切れた。

 

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