『二十年後につながる東屋』を使って有馬記念で万馬券を当てようと思う。

沢本新

万馬券を当てたい吾妻宗平の話

『なんでも、二十年後につながる東屋あずまやというやつがあるらしいぞ』


 吾妻宗平あがつまそうへいがそれを耳にしたのは、行きつけのパチンコ店の休憩スペースで煙草をふかしていた時のことだった。


 七分前に最後の千円札をコイン貸出サンドに捧げたばかりの宗平は、けたたましいBGMに紛れて聞こえる会話に耳をそばだてた。

 ちらっと肩越しに背後を窺うと、話しているのは女にモテそうな若い男二人組だった。

 好きなだけ女を侍らせて、やりたい放題やってますという雰囲気。カチ盛りドル箱で脳天をかち割ってやりたい衝動が、腹の底からせり上がってくる。

 聞いた話の内容は、こうだった。


 ――香流公園かなれこうえんの池に立っている東屋は、ある条件が揃うと二十年後とつながるらしい。

 ――条件とは、『東屋のベンチの下に敷かれている石を一つ拾うこと』と、『二十年後の同じ日に、拾った石を持った人物がその東屋を訪れること』。

 ――ただし、二十年後と繋がれるのは、生涯で一回きりである。


 まとめると、そういう話だった。

 話し終えた男たちは、『そんな馬鹿な話、信じるやつもいるんだな』と笑いながら、またホールへと戻って行った。


 吸いかけの煙草をくわえ、深く息を吐き出しながら、さっきの話を思い返した。


 ――二十年後とつながる東屋、か。


 どこの街にもありそうな、胡散臭い都市伝説だ。

 なのにその単語は、しばらく宗平の頭にこびりつき続けたのだった。


   ◆


 煙草を吸い終えると、宗平はパチンコ屋を出た。パチンコ屋から遠ざかるたび、サンドに吸い込ませた千円札の束が惜しくて堪らなくなってきた。

 あの金があれば、もっと旨いものも食えたし、電車にも乗れた。遠くに行けたし、あるいは風俗だって行けたかもしれない。

 どうして、ギャンブルに金を注ぎ込む人間というのは、その金が数時間後には何倍にもなって返ってくるのだ――なんて、淡い幻を見てしまうのだろう。

 負けに負け、何度バイト代をすっからかんにしても、また懲りもせずギャンブルに手を出してしまう辺り、どこまで行ってもおれはあの母親の息子なんだろうな――そんなことを考えずにはいられなかった。


 吾妻宗平は、母一人子一人の家庭に生を受けた。

 他の家庭と比較して収入が十分ではないにも関わらず、ホスト遊びという高尚な趣味を持っていた母親のお陰で、宗平の食事はいつも八枚切りの食パン半分だった。

 ろくな物も食べられず、かと言って奨学金をもらって勉学に打ち込めるほど頭も良くなく、意欲もなかった宗平は、中学を卒業するのと同時に働き始めた。

 宗平の自立志向を歓迎した母親は、さらにホスト遊びに力を入れ、やがて家にすら帰って来なくなった。

 頭もよくなければ人付き合いもできない宗平は、しばしば人間関係でトラブルを起こし、その度に職を転々とした。

 日雇いの倉庫作業や、引っ越しのバイトでどうにか糊口を凌ぐ日々。

 楽しみは、たまの休みのパチンコくらい。

 勝てばその金で酒を飲み、負ければ木枯らしに吹かれるだけだ。


 すれ違う人達の顔は、誰も彼もが幸せそうに見える。

 誰も彼もが、自分を嘲笑っているような気がする。


 たとえば、今自分がナイフを持っていたとしたら、衝動に任せて雑踏で暴れることなどないと、どうして言い切れるだろう?


 ――おれみたいな人間を、人は『クズ』と呼ぶんだろうな。


 口の中で「クズ」と呟くと、すれ違った女子高生が「ひっ」と、眼前をドブネズミが走り抜けたかのような声を上げた。

 無性に笑いたくなって、ふとさっきの話が蘇った。


 二十年後につながる東屋あずまや――か。


 何もない我が家だったが、ある時期に動画配信サービスを登録していたことがあった。おそらく、その時の母が入れ上げていたホストが映画好きだったのだろう。

 その頃、よく観ていた映画が、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だった。

 特に好きだったのが、『2』だ。

 映画の悪役――未来のビフ・タネンは、困窮した現状を打破すべく、数十年間のあらゆるスポーツの結果が網羅された雑誌――スポーツ年鑑を携え、主人公マーティーたちのタイムマシンデロリアンを奪い、過去の自分にそれを渡す。

 未来の記録を手に入れた悪役ビフは、それを利用してスポーツギャンブルで勝ちまくり、巨万の富を得る。

 なんて夢のあるストーリーだろう――と、幼き日の宗平は思った。

 いつか未来の自分がやってきて、どうしようもないクズの自分に一発逆転の魔法スポーツ年鑑を授けてくれるんじゃないだろうか。

 そんな妄想を、小さい頃からずっと繰り広げてきたのだ――。


「あ、」


 その時、宗平の脳内で、回路がつながった。


 『二十年後とつながる東屋』は、おれのどうしようもない状況を変える、一発逆転の魔法デロリアンなんじゃないだろうか?


   ◆


 その『二十年後とつながる東屋』がある香流公園は、行きつけのパチンコ屋からは歩いて三時間の場所にあった。電車代もパチンコに費やしてしまったので、歩くしかなかった。着いた頃にはもう疲労困憊だった。


 香流公園は、この辺りでは比較的大きな公園で、休日になるとフリーマーケット的なイベントが行われることも多い。

 中央には古くて大きな噴水があり、その周りを芝生広場がぐるりと囲んでいる。芝生広場の端には児童向けの遊具が並んでいて、そのずっと奥には池がある。その池の、ちょうど中央辺りに立っているのが問題の東屋――というわけだった。

 ごく普通の東屋だが、そこへ行くには、人とすれ違うのも難しいくらい細い橋を渡らなければならない。高揚に任せてその橋に踏み入れると、ぎしりと木造の橋が軋む音が聞こえた気がした。

 普段は賑わっている公園水景だが、夜十時も回れば辺りに人の気配は感じない。


 この東屋が二十年後の未来につながるとして、望むことは一つ――行き詰まる現状を打破するスポーツ年鑑シルバーブレットだ。


 二十年後の自分が何をチョイスするかはわからないが、差し当たり思いつくのは、来週末に予定されている有馬記念だ。

 そこで、

 どのレースを選ぶかにもよるが、配当倍率オッズは少なく見積もっても千倍は行くだろう。

 資金の調達先は、消費者金融でも何でもいい。仮に五十万でも借りることができたとしたら、それは一日で五千万千倍に化ける。

 レースの荒れ方によっては、億単位を稼ぐことだって難しくはないはずだ。

 税金を差し引いても数千万の収入を手にすることができる。

 それだけの金があれば、それを元手に株式投資をしてもいい。未来の自分にその辺りの資料も準備させればいいのだ。

 何せ、それをやるのは宗平おれ自身なのだから。


 宗平の運命を変えるにしては、あまりに普通すぎる東屋だった。特別なことが起こるどころか、そもそも人の気配がない。

 とりあえず、『東屋のベンチの下に敷かれている石を一つ拾うこと』という条件を満たすため、椅子の下に手を伸ばし、適当な石を一つ拾ってポケットに入れた。

 これで、二十年後とつながる条件を満たしたはずだ。後は、その時を待つばかり――。


 だが、待てど暮らせど、何も起こらない。

 誰も、来ない。


 もちろんそれは当たり前のことなのだが、疲れ切り、摩耗し切った宗平の思考が、その『そんな夢みたいなこと、起こるはずがない』という当たり前に行き着くことはない。


 小さい頃からの夢と、思い込みと、三時間にも及ぶ徒歩という苦行が、元よりわずかしかなかった宗平の冷静さを失わせていた。


 二十年後の自分が詳しい日時を忘れてしまったのかもしれない――そんな恐怖に襲われた宗平は、たまたま持っていたサインペンで、慌てて自分の左手に『2005年12月16日22時』と書き込んだ。

 ミミズが這ったかのような文字しか書けなかったが、読めないほどではなかった。


 誰も現れないまま二時間が過ぎた。池のほとりに立っている時計が十二時を指した時、宗平が紡いだ思考は『帰ろう』ではなく、『死のう』だった。


 金もない。

 家族もいない。

 未来もなければ希望もない。

 たった一つの望みすら絶たれた今、おれが行くべきなのはこの泉の底なんじゃないか――。


 まるで死神に魅入られたかのように、フラフラと池の方に吸い寄せられていく。

 手すりに手をかけ、ぐっと身体を乗り出し、右足を手すりにかけようとしたその時、細い橋に小柄な人影が現れた。


 どこかから歩いてきたのではなく、ホログラムか何かのように、ふっとその場に浮き上がった。

 少なくとも、宗平の目にはそう見えた。


 月明かりもない闇夜の橋を歩いてくるのは、どうも女性のようだ。

 いや、女性というには見た目が若すぎる。高校生、あるいはもっと――。


「――――」


 彼女は何も言わず、会釈すらせずに宗平の前を通り過ぎ、ベンチの奥側に座った。

 宗平は、その反対側の端に腰を下ろした。


 細い針で肌を滅多刺しにするような、痛みを伴う沈黙が流れる。


 チラチラと、横目に彼女を窺った。

 白のダッフルコートに、明らかに高級とわかるジーンズ。

 闇の中でもわかる程にきめ細かく白い肌に、肩くらいまで伸ばした真っ直ぐな黒髪。

 まつ毛は長く、視線は伏せられているものの、時折チラチラとこちらを窺うような雰囲気を感じる。


 彼女が、そうなのか。

 それとも偶然通りかかっただけの中学生か。

 いや、ただの中学生がこんな時間に散歩なんかしているはずがない。

 でも、しかし――。


「な、なあ!」


 衝動のまま、宗平は声を出してしまった。

 自分で思っていたよりも遥かに大きく強い声。

 少女の肩は、かわいそうになるくらいビクッと震えた。

 宗平の胸に罪悪感が芽生える。

 しかし、止まるわけにはいかなかった。


「あ、あんたが、なんだろ? なあ、あんたが、おれの、二十年後のおれの――」


 支離滅裂だ。

 けど、彼女が本当にそうなら、どんなに支離滅裂だろうと、おれのことがわかるはずだ。

 だって君は、ここにこうして現れたじゃないか――!


「なあ、なあ、なあ――!」


 彼女の足元にすがりつくようにして、宗平は叫んだ。

 まるで、罪人が神に許しを請うように。


「くれるん、だろ? おれの未来、おれの人生、おれの希望……すべてを、あんたが、与えてくれるんだろ? そうなんだろ? なあ、なあ――!」


 少女の足が震えていることに、宗平は気づかなかった。

 もし彼女が望むものを与えてくれるのなら、その靴を舐めてもいいし、蹴られようが構わなかった。


「――さん」


 少女の口元が微かに動いたが、その声は宗平には届かなかった。

 少女はダッフルコートの右と左のポケットにそれぞれ手をやり、唇をぎゅっと引き結び、こう言った。


「あなたは産まれてこなければよかったと、思いますか?」


 その時初めて、宗平は彼女の顔を見た。

 どこかで見たことのある顔のように思えたが、その記憶がどこから来ているのか、宗平にはわからなかった。

 わかったことは一つ。

 彼女は神などではなく、おれと同じように震える身体を持つ、人間だということ――。


「違う」


 宗平の言葉に、彼女は少しだけ目を見開いた。


「産まれてきてよかったって、そう思いたいんだよ」


 その言葉は、自分でも驚くほどにするりと、喉の奥から滑り落ちてきた。

 煙草の煙に汚れた喉を震わせたとは思えないほど。

 まるでそれは、この地球が作られた時からそう決められていたのではないかと、思えるほどに。

 少女はしばらくじっと宗平を見て、やがて右のポケットから一枚の紙を取り出し、宗平に手渡した。


 宗平にとってそれは、神からのお告げだった。


 ふと気づくと、少女の姿は消えていた。

 渡された紙に書かれていたのは、宗平が期待していた通り、来週末に予定されている有馬記念のレースの結果だった。


「ああああああぁぁぁぁああああぁぁぁ――――っ!!!」


 夜空に向かって咆哮した。


 未来を、

 希望を、

 望む全てを、手に入れた――。


 その時の宗平は、確かにそう思った。

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