100年の日本

@mai5000jp

第1話 大正14年 1925年

『白い夜の街角』


雪がちらつく夕暮れ、銀座の通りは人々のざわめきで溢れていた。ガス灯の黄色い光が、積もりかけた雪を淡く照らす。通りの片隅では、サンタクロースの衣装を着た店員が子どもたちに小さなお菓子を手渡している。


「わあ、チョコだ!」

小さな声が雪に溶ける。


高校生くらいの少女、澄子は手袋越しに差し出されたチョコレートを受け取り、にっこりと笑った。ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐる。


「ありがとう、サンタさん!」

「おお、いい子だね、雪の中を歩く君にはぴったりだよ。」


澄子は街路樹に飾られた小さな電飾を見上げた。赤や青のガラス玉が光を反射し、まるで宝石箱のようにきらめいている。通りを行き交う人々の足音、話し声、馬車の車輪が石畳を叩く音が重なり、街全体が冬のメロディを奏でていた。


「お母さん、見て! クリスマスの飾りだよ!」

澄子の妹、陽子は手袋を脱ぎ、雪を握りつぶしてはしゃいでいる。


「はいはい、転ばないでね。」

母は手に持った荷物をぎゅっと抱えながら、少し疲れた笑顔を見せた。石油ストーブの温かい光が恋しい季節、家計を支えるために母は昼も夜も働いていた。


銀座の洋品店のショーウィンドウには、クリスマスツリーが飾られていた。真っ赤なリボン、金色の鈴、雪のように白い綿の飾り。澄子は足を止め、息を吐き出した白い湯気がガラスに小さな雲を作る。


「わあ……きれい……」

「ねえ、お母さん、このドール、欲しいな。」


母は微笑むが、首を横に振る。


「ごめんね、今年は無理よ。雪かきで手が冷たいけど、温かい家に帰ろうね。」


通りの角には、洋食屋の窓から漂うバターと小麦の香り。中では家族連れがハンバーグやクリームスープを楽しんでいる。澄子は匂いに誘われるように窓越しに覗いた。


「おいしそう……」

「たまには、ね。」

母は小さくため息をつき、娘たちの手を引く。


雪が深くなると、街路樹の枝には氷の粒が光り、まるで小さな星が降りてきたかのようだ。澄子は雪の上にそっと手を置き、冷たさにぎゅっと目を細める。


「寒いけど、楽しいね。」

「うん、クリスマスって、なんだか胸がドキドキするね。」

陽子の頬は赤く染まり、雪で濡れた髪がほのかに凍りつく。


家に戻ると、居間には薄暗い電灯の下で、父のいない生活を感じさせる静けさがあった。母は夕食の支度をしながら、手元の鍋の音を立てる。澄子は窓の外に目を向け、銀座の灯りを思い浮かべる。


「今日はね、街がキラキラしてたの。」

「そうか、でもお母さんにはその灯りも見えないのよね。」

母は少し寂しそうに笑ったが、娘たちを見て目を細める。


夜になると、ろうそくの灯りが居間を優しく照らす。澄子は小さな木箱から、去年買ったクリスマスのオーナメントを取り出し、妹と一緒に簡素なツリーに飾りつける。雪の結晶の形をした紙飾りが、かすかに灯りに反射して輝く。


「見て、陽子。雪の結晶みたいだね。」

「うん、あたたかいね。」


五感が冬の記憶を彩る。鼻をくすぐるお菓子の香り、手に伝わる木の温もり、耳に届く風の音、目に映る揺れる灯り。澄子は胸がきゅんとするのを感じた。


その夜、澄子は窓の外を見上げる。雪が舞い、街の灯りが瞬く。銀座の煌めきも、家の小さな灯りも、同じ冬の光。胸の奥にぽっと温かいものが広がった。


「来年のクリスマスも、こうして笑っていられますように。」

小さな声が、雪に溶けて夜空に消える。


外では遠く、教会の鐘が静かに鳴った。澄子はその音に耳を傾け、心の中で小さくつぶやく。


「メリークリスマス。」


白い雪が降り続ける街角に、五感と感情が絡み合う、1925年の冬のひとときがあった。


***

🗾 1925年(大正14年)日本の人口と暮らし

1925年(大正14年)は、日本の近代史において大きな転換期にあたる「大正デモクラシー」の末期であり、昭和初期の軍国主義時代が始まる直前の、比較的自由な雰囲気が残る時代でした。


この年は、日本で初めての本格的な国勢調査が実施され、国民の生活や社会構造が大きく明らかになった年でもあります。


📊 1925年(大正14年)の人口動態と社会

1925年は、日本で第一回国勢調査が実施された年であり、正確な人口統計が得られました。


項目 データ(概算) 備考

総人口 約5,974万人 外地(朝鮮、台湾など)を含まない内地のみの人口

都市人口比率 約25%前後 都市化が急速に進み始めていた時期

平均寿命 男性 約42歳、女性 約43歳 衛生環境の改善は進んでいたが、乳幼児死亡率が高かった

社会制度 普通選挙法公布(25歳以上の男子に選挙権付与) 政治参加の機会が拡大した画期的な年


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【社会のキーワード】


都市化と集中: 東京や大阪などの大都市圏への人口集中が加速しました。特に、1923年の関東大震災からの復興過程で、都市のインフラ整備が急ピッチで進みました。


階級分化: 資本主義の進展に伴い、労働者階級と資本家階級の格差が拡大し、社会主義や労働運動が活発化しました。


メディアの発達: ラジオ放送が始まり、情報伝達が一気に広域化し、庶民の娯楽や知識に大きな影響を与え始めました。


🏠 1925年の暮らしと文化

1. 都市生活と「モダン」

大都市の若者文化は「モダン(Modern)」と呼ばれ、欧米の影響を強く受けました。


ファッション:


男性: 洋装が普及し、スーツや学生服が一般的でした。モボ(モダンボーイ)と呼ばれる先端的な若者たちは、派手な洋服や七三分けの髪型を好みました。


女性: 職業を持つ女性(バスガール、タイピストなど)は洋装を取り入れ始めましたが、一般的には着物でした。モガ(モダンガール)と呼ばれる女性たちは、パーマや断髪、派手な洋装を取り入れ、社会的な注目を集めました。


住宅: 大都市では、洋風を取り入れた文化住宅や、アパートメント(集合住宅)が出現し始めました。


娯楽: 映画館(活動写真)、カフェー、ダンスホール、喫茶店などが流行しました。1925年に開始されたラジオ放送は、家庭の娯楽を一変させました。


2. 地方・農村の生活

人口の多くは依然として地方の農村に住んでいました。


経済基盤: 米作を中心とした農業が主たる収入源でした。冷害や不作は、農家の生活を直撃しました。


生活様式: 伝統的な和風家屋と、かまどや囲炉裏、五右衛門風呂といった昔ながらの生活様式が主流でした。


交通: 都市間は鉄道が発達していましたが、農村部ではまだ徒歩や人力車、自転車が主な移動手段でした。


3. 食生活

主食: 米が絶対的な主食でした。


洋食の影響: 都市部では、カツレツ、コロッケ、カレーライスといった洋食が庶民の間に浸透し始めました。特に、手軽な洋食は「ハイカラ」なものとして人気がありました。


📚 まとめ:激動の前の「平穏」

1925年の日本は、関東大震災からの力強い復興、普通選挙法の制定という民主主義の拡大、そしてラジオ放送開始という技術革新が同時に進行した、**「大正デモクラシーの理想が最も花開いた時期」**と言えます。


一方で、都市と農村の格差、資本主義の矛盾、そして急速な西洋化に対する伝統的な価値観の軋轢など、後の昭和の激動期へと繋がる社会的なひずみも内包していました。



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