アラスカの風

広瀬 正美

第1話


 そこに佇む犬は、遠目にはハスキーのように見えた。だが、よく見るとその姿はどこか異質だった。足はスラリと長く、胸は狭く引き締まり、金色の眼は鋭く、油断なく光っていた。まるで森の奥深くから抜け出してきた野生の獣のような雰囲気をまとっていた。


「名前はカムイ。雄。まだ八ヶ月。お父さんはオオカミ、お母さんはハスキー。一代ミックスのウルフドッグだよ。」


 太い革製のリードを握る飼い主は、痩せた中年男性だった。ボサボサの髪に無精髭、くたびれたフランネルシャツと色あせたジーンズ。だが、彼の目はカムイを見つめるたびに柔らかく細められ、深い愛情が滲んでいた。彼の名は三島。アラスカでネイチャーガイドを生業とする男だ。


 私はある人脈を通じて、秋田県にF1(一代交雑)のウルフドッグを飼うネイチャーガイドがいると耳にした。興味と好奇心が抑えきれず、未知の人物に電話をかけた。電話口での彼の声は低く穏やかで、どこか遠い雪国の風を思わせた。話はすぐに弾み、意気投合した私は、道の駅で待ち合わせ、カムイに会う約束を取り付けた。


 私は秋田の限界集落に住むそう若くは無い女性ブリーダー。家には数頭のウルフドッグがおり、彼らを育てている。愛犬たちは繊細で、野生の血が色濃く残る特別な存在だ。だが、三島さんが連れているカムイは、日本ではまずお目にかかれない血統のウルフドッグだと聞き、心が躍った。純粋なオオカミの血が流れている――その事実に、私はどうしようもなく惹かれていた。


 カムイの写真を撮らせてもらうと、彼はまるで王者のように悠然と佇み、シャッター音にも動じなかった。ウルフドッグによく見られるシャイな気質は感じられず、落ち着いた自信に満ちていた。恐る恐る手を伸ばし、身体に触れてみる。反応はなく、ただ静かに私の動きを受け入れていた。ゆっくりと撫でると、ゴワゴワした蓑のようなオーバーコートの下には、ふわっとした綿のようなアンダーコートが隠れていた。触り心地は、まさにオオカミそのものだった。冷たく湿った秋田の空気の中で、カムイの体温が私の手に伝わり、野生の鼓動を感じた気がした。


 しばらくして、三島さんはカムイを車に乗せ、「ちょっと話でもしようか」と道の駅の小さな食堂に私を誘った。木のテーブルにプラスチックの椅子、壁には地元の特産品ポスターが貼られた素朴な空間。コーヒーの香りが漂う中、私たちは互いにウルフドッグを愛する者として、すぐに打ち解けた。同じ県内に住む者同士、どこか親しみも感じながら、夢中で語り合った。


 三島さんはアラスカでの経験を語り始めた。彼は若い頃、オオカミの神秘的な魅力に取り憑かれ、現地のウルフドッグブリーダーを訪ねた。そこで見たのは、純粋なオオカミたちだった。アラスカでは州法でオオカミやウルフドッグの飼育・取引が厳しく制限されている。多くのブリーダーは規制の緩い地域へ移住したが、大手のケンネルは終生飼育を条件に特例で飼育を許可されていた。


「どうしてもオオカミが欲しくなったんだ。」

 三島さんは遠くを見る目で言った。

「金額を聞いたら、驚くほど安かった。普通のオオカミで10万円、黒オオカミなら20万円。だけど、購入も輸出もできないはずだろ?って思ったよ。」

 彼は笑いながら続ける。

「そしたらブリーダーがこう言うんだ。『これはオオカミでもウルフドッグでもない、ハスキーだよ。獣医師の証明書も付ける』ってな。」

 私は思わず吹き出した。「それ、完全にグレーゾーンじゃないですか!」

 三島さんは肩をすくめ、苦笑した。

「まあ、そうだな。俺も若かったし、勢いで買っちゃった。小柄な雄のオオカミ、名前はキング。連れて帰って、しばらく自宅の庭で鎖につないで飼ってた。」


 だが、オオカミは犬ではなかった。月日が経つにつれ、キングの野生の本能が際立ってきた。散歩を嫌がり、ドッグフードを拒み、生肉ばかりを欲しがった。近所に牧場があったため、もし逃げ出したら取り返しのつかないことになる。三島さんはようやく自分の衝動買いを後悔し始めた。


「で、思いついたんだ。動物園なら引き取ってくれるんじゃないかって。」


 彼は動物園に電話をかけた。

「あの、うちにオオカミがいるんですけど、引き取ってもらえませんか?」

 受付の声が一瞬固まった。

「え、オオカミを飼ってるんですか?特定動物の許可は?」

「そんなのがあるんですか?」

 三島さんの声は動揺していた。

「当たり前ですよ!違法じゃないですか!どこで入手したんですか?」

 矢継ぎ早の質問に、怒られたと思った三島さんは、思わず電話を切ったという。


 私はその話を聞いて、腹を抱えて笑ってしまった。三島さんの悪意のない無計画さが、なんとも人間らしくて愛おしかった。「それで、キングはどうしたんですか?そり犬の業者に渡したんですか?」

「うん。前からの知り合いで、仕事も一緒にしたことのある奴でさ。そいつのところは雪深い場所で民家もない。キングなら幸せに暮らせると思ったんだ。」

 私は頷いた。実は、キングの存在を最初に知ったのは、ネットで偶然見つけた彼の写真だった。漆黒の毛並みと鋭い眼光。その美しさに心を奪われ、キングのオーナーであるそり犬業者にメールを送った。そこで、キングの息子であるカムイが秋田県にいると聞き、三島さんを紹介されたのだ。    

 それが今回の出会いにつながった。


「ところで、アラスカでオオカミって本当にそんな安いんですか?」

 私が聞くと、三島さんは少し考えて答えた。

「まあ、10万円とか20万円ってのは現地の話。輸出の手続きや獣医師への謝礼、空輸代なんかを考えると、結局それなりに金はかかるよ。」

「それでも、せっかく手に入れたオオカミをあっさり人に渡しちゃうなんて、ちょっと勿体ない気がしますね。」

 私は正直な気持ちを口にした。

 三島さんはコーヒーカップを手に、窓の外を見やった。道の駅の駐車場には、カムイを乗せた彼の古いジープが停まっていた。

「そうだな。でも、キングを渡したのは後悔してないよ。あいつは俺には手に余る存在だったけど、カムイにはキングの血がちゃんと流れてる。あいつを見てると、俺がアラスカで感じたオオカミの魂が、ちゃんとここにあるって思えるんだ。」


 その言葉に、私は胸が熱くなった。カムイの金色の眼が、まるで遠いアラスカの雪原を映しているように思えた。私もまた、ウルフドッグを通じて野生の息吹を感じていた。ブリーダーとして、彼らの血を守り、育てること。それは、ただの仕事ではなく、私の生きがいだった。


「三島さん、将来カムイの子供が生まれたら、ぜひ見せてくださいね。」

 私は笑顔で言った。

「ああ、もちろんだ。けど、その前に、お前さんのウルフドッグも見せてくれよ。」   

 三島さんがニヤリと笑う。

 私たちは笑い合い、コーヒーを飲み干した。窓の外では、秋田の山々が静かに暮れゆく空を背にそびえていた。カムイの遠吠えが、遠くで聞こえた気がした。

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