プロローグ
プロローグ
朝の光が障子を透かして、畳に細い線を描いていた。
隆は、いつも通りにコーヒーを淹れようと手を伸ばす。
だが、カップを取り、フィルターをセットする手順が、頭の中でふわりと飛んだ。
「…えっと、先に水入れるんやったか?」
小さな声で自分に問いかける。
指先は空のカップを握ったまま、しばらく宙をさまよう。
背後で、テレビの音がかすかに耳に入る。ニュースキャスターの声は単調で、まるで遠くの海の波のようだ。
隆は深く息を吐く。
「なんだかな…俺も、こんなこと忘れる年になったんか…」
玄関のチャイムが鳴った。
「誰や…」
声に自信はない。だが、足音は確かに家族のものだった。
ドアを開けると、娘の恵美が立っている。
「お父さん、今日もちゃんと朝ごはん食べた?」
彼女の瞳は鋭く、優しさと警戒が混じっている。
「う、うん…食べたで。」
隆は少し背筋を伸ばす。
心の中で小さく舌打ちをする。食べたのに、なぜ確認するのだろうか。
「それでね、お父さん…銀行に行く前に話しておきたいことがあるの。」
恵美の手には封筒が握られていた。隆はそれをちらりと見て、胸の奥がざわつく。
「…封筒?」
「ええ。高額の引き出しや振り込みについて、私が承認しないとできないように設定してあるの。」
隆の目が大きく見開かれる。
「なんやて!勝手にそんな…」
「勝手って言わないでよ!お父さんを守るためよ。最近、詐欺が多いんだから!」
恵美の声は強い。強すぎて、隆の耳には釘を打たれたように響いた。
畳の上で、隆の心はぐらりと揺れる。
「子ども扱いされてるみたいや…」
短い吐息が、かすかなコーヒーの香りに混ざる。
「お父さん…そんな顔しないで。」
恵美がそっと手を伸ばす。温かい手のひらが、隆の手に触れる。
だが、その温もりも、怒りと屈辱を消すには足りなかった。
隆は小さな椅子に腰を下ろす。
「俺は、自分で決めてきたんや…全部、自分でやってきたんや…それが、もう…もう…」
声は震え、涙がじんわり目に溜まる。
「お父さん、泣かないで。私は、ただ…」
「守られとるだけや…自由が、俺にはもうない…なんだかな~」
隆はそう呟く。声は小さいが、重みがある。
廊下の向こうで、新聞紙がめくれる音がする。
外の風は、枯れ葉をはらいながら窓ガラスを揺らす。
隆の胸の中も、同じようにざわざわと揺れている。
「ちょっとだけでも…俺の金、俺の判断で使いたいんや…」
その思いが、声にならず、胸の奥で渦巻く。
恵美は静かにそばに座り、手を握り返す。
「お父さん…わかるわ。でも、危ないのよ。お願い、少しだけ我慢して。」
隆は視線を落とす。
手元の小銭が光を反射して、まるで笑っているように見える。
「これだけか…これで自由を感じろと?」
小さく笑みを浮かべつつも、心の奥ではまだ「なんだかな~」が消えない。
外では小鳥がさえずる。コーヒーの香りがようやく落ち着く。
隆は深く息を吸い、吐き出す。
「…まあええか。今日はこれで…自由、残高ゼロやけど。」
短く、でも確かな決意。
窓から差し込む朝の光の中で、隆の影は畳に揺れながら、小さな自由の第一歩を踏み出した。
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