第3章 境界は、足の裏からずれる


線に足を乗せた瞬間、音が消えた。


完全な無音ではない。

けれど、波の音も、ポンプの低音も、風の擦れる気配も、

すべてが「一枚の膜の向こう」に退いた感じがした。


蒼真は、反射的にバランスを取ろうとした。


だが――足元が、平らではない。


傾いているわけでも、崩れているわけでもない。

ただ、重さのかかり方だけが、微妙にずれている。


自分の体が、自分の体であることはわかる。

でも、世界がそれを受け取る位置を、少しだけ間違えている。


「……なに、これ」


声は出た。

けれど、その音は、蒼真の耳に届く前に、どこかで薄くなった。


目の前の少年が、半歩先で立っている。


彼は、線の向こう側にいるはずなのに、距離感が定まらない。

近いのに遠い。

遠いのに、目だけはやけに鮮明だ。


「無理しなくていい」


少年は言った。

声は、ちゃんと聞こえた。

ただし、少し遅れて。


「最初は、だいたい気持ち悪い」


蒼真は歯を食いしばった。


運動をしているとき、身体が追いつかない瞬間は何度もあった。

着地がずれたとき。

踏み切りを間違えたとき。


でも、それは「自分のミス」だった。


今は違う。

世界のほうが、ズレている。


「……戻れんのか、これ」


蒼真が言うと、少年は一瞬、言葉を探す顔をした。


「戻れないわけじゃない」


間があった。

それだけで、答えの半分は伝わった。


「ただ――戻ったあと、同じ場所だと思わないほうがいい」


蒼真の胸が、きゅっと縮む。


それは、脅しじゃなかった。

経験から出た言葉だった。


蒼真は、足元を見た。


線は、もう線ではなかった。

細い帯。

いや、境目。


境目の上に立つと、

コンクリートの質感が薄れ、

代わりに、水の気配が足の裏から上がってくる。


濡れていないのに、冷たい。

沈んでいないのに、浮いている。


「名前は?」


蒼真は顔を上げた。


「……蒼真」


少年は、わずかに目を細めた。

さっきより、少しだけ安心したような顔。


「やっぱり」


「なにがだよ」


「いや……」


少年は言葉を切って、線の向こうを振り返った。


蒼真も、つられて振り返る。


水族館の裏手。

フェンス。

海。


――の、はずだった。


でも、そこには

「同じ形をした別の風景」が重なって見えた。


フェンスの向こうの海が、二重になっている。

片方は、いつもの灰青色。

もう片方は、少し色が薄くて、光が均一すぎる。


まるで、誰かが記憶だけで描いた海。


「……二つ、ある」


蒼真が言うと、少年はうなずいた。


「どっちも、海だよ」


「違うだろ」


「違わない」


即答だった。


「違うのは、そこに来るまでの道」


蒼真は、理解できないまま、理解してしまった。


道。

世界線。

呼び方はどうでもいい。


要するに――

同じ場所に見えても、

同じ出来事が積み重なっていない世界。


蒼真は、イルカのキーホルダーを握り直した。


金属が、さっきより少しだけ温かい。

手のひらの体温に、追いつこうとしているみたいだった。


「それ……」


少年が視線を落とす。


「それは、こっちの世界で落とした」


蒼真の喉が鳴った。


「……じゃあ、俺のは?」


少年は、少しだけ口元を歪めた。


笑いかけたようにも見えたし、

痛みを隠したようにも見えた。


「まだ、落ちてない」


蒼真の胸の穴が、強く疼いた。


落ちてない。

ということは――


「……これから、落ちるってことかよ」


少年は答えなかった。


代わりに、一歩、後ろへ下がる。

境界の帯の、さらに向こう側へ。


「来る?」


問いは短い。

でも、その裏にある重さは、重かった。


行けば、何かが変わる。

行かなければ、何かが欠けたまま続く。


蒼真は、自分の足を見る。


足は、まだ動く。

走れる。

跳べる。


「……おまえの名前は」


少年は、ほんの一瞬、ためらった。


そして――


「ここでは、まだ言えない」


蒼真は眉をひそめた。


「ずるいな、それ」


「知ってる」


少年は、少しだけ笑った。


それは、蒼真が知っている誰かの笑い方に、

よく似ていた。


境界の帯が、わずかに波打つ。


空気が、再び息を止める。


少年が言う。


「夕方になると、もっとズレる。

 その前に、渡らないと――」


「と?」


「回復の順番が、逆になる」


蒼真は、その言葉を噛みしめた。


喪失と回復。

どちらが先かで、世界の形は変わる。


蒼真は、一歩踏み出した。


境界の向こうへ。


足の裏が、完全に“別の地面”を捉えた瞬間――

視界が、静かに反転する。


空は同じ色なのに、

光の当たり方だけが、違っていた。


蒼真は、息を吸う。


胸の穴が、まだある。

でも、その奥に、微かな“道”が見えた気がした。


少年が、隣に立つ。


「……ようこそ」


言葉は小さい。

でも、確かだった。


蒼真は、

知らない世界の海の匂いを、初めて吸い込んだ。

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