きみの手のひらに在るすべてと
まど
きみの手のひらに在るすべてと
昼下がりの公園。そこはただただ平穏を繰り広げる世界のひとつだった。微かに聞こえる鳥の囀り。車道を過ぎる車の走行音。それよりも大きく響く子どもたちの、どこまででも弾んでいくような声。そこに柔らかな風が吹けば、目の前にある平和が公園の外まで広がっていく気がした。
木漏れ日がちらちらと視界を白くする。それはまるでレースのカーテンのようだった。中と外を隔てる薄い膜。そんなイメージが不意に浮かんだ。
「私は、この世界が好きなんだ。」
隣に座る青年がぽつりとこぼす。言葉に滲む寂寥を見過ごすことができずに、ぼくは拾い上げてしまう。
「……そう言っている割には、随分と落ち込んでいるように見えるけど」
「そう? 自分ではわからないや……。」
僅かに口角を上げる青年に、ぼくの無意識はたくさんの情報を投げて寄越した。“いつ、この青年は隣に?”、“なぜ、初対面だと理解できているのに手を伸ばしてしまった?”、“どうして顔がわからないのに、彼の表情を感じられる?”——けれどもそれはひとつ残らず薄く消えていく。
不自然だ。異常だ。そんな声は自分の中の“どうでもいい棚”へさっとしまわれて、ぼくは改めて、隣の青年との会話に戻る。
「まあ、無理に気付くこともないよ。必要な時に向き合えばいいと思います」
「……君は優しい人だね。まるで天使みたいだ。」
「ちょっ——やめてくれ! こんな、成人をとうに超えて還暦に足を突っ込みかけてる初老の男を、天使に例えるなんて! 天の父はいまきっと泣いてるよ!」——なんて返して、少し後悔した。今の子はきっと、天の父だなんて言われてもわからなかっただろうなと。
しかし、そんな杞憂は柔らかな声に溶けて消えた。
「アハハ! そんなことないさ。父は容姿も、年も、性別も、なにひとつ比べることなく等しく迎えてくださるよ。」
「だとしてもだ! 死んだときに、自分と同じくらい衰えた天使が迎えにくるなんて……ど田舎の町役場じゃないんだから……」
「役場……なるほど、確かに……私たちも職員のようなものか……。」
熱心な教徒なのかと腑に落ちかけるぼくを、当事者の彼自身が引き上げた。「おっと。自認天使の男に出会うとは……おそろしい世の中になってしまったな」なんとかそれだけを絞り出して、ぼくは隣に目を向ける。木漏れ日がちらちらと差して、ぼくと青年の間に膜を作っていた。
誰も干渉しないし、誰も踏み込まない。
この世界は、必要最低限の距離だけを保ちながら、それでも完全な孤立を許さなかった。
「そんなことないよ。世界は美しい。どこまでも綺麗で……愛は溢れるように存在してる。」
青年は遠くの景色を眺めるような素振りでベンチに座り直す。
その窺い知れない横顔に、やはりぼくは寂寥を見てしまうのだ。だから、きっと言わなくてもいい言葉を紡ぐ。「きみは過剰にスケールを大きくして考えるようですね」
「そうかな? 私にとっては普通なんだけれど。」
「……そんなに広い視野で物事を見ていたら、いつか疲れて目が潰れてしまうよ」
「どうして、……そんな風に言うの。」
「身の丈にあった視界でいいじゃないか。広く見るのは上の人たちに任せたほうがいい。きみが頑張る必要はないでしょう」
ぼくがいい終わるや否や、青年は隣から立ち上がってぼくの前に移動した。そのまま、座ったままのぼくを見る。
「疲れを、感じたことはない。苦しみも、無力感だって……私には感じる必要もなかった筈なんだ。でも……。」
逆光で、青年の顔は窺い知ることができない。
「いつの間にか、考えていた。どうして世界はこうなんだろうと。」
「……こう、とは?」
「父の創られた世界は美しい。そこに存在する全ては愛に溢れていて……なのに、どうして人だけがこんなに悲しむのだろう、と。」
「んん……また大きな枠組みを持ってきたな」ぼくの茶化すような声色は、青年の強張りを解くことはできなかった。
「ひとりとして、同じ人間はいないというのに。どうして罪だけが連綿と受け継がれてしまう? 同じ形であるというだけで……同じ魂などひとつもないのに。」
青年の声は震えている。泣いているのか、憤っているのか。逆光は彼の表情を隠したまま、強く握りしめた拳だけを、しっかりとぼくに見留めさせる。
そんな青年を、ぼくは放っておくことができなかった。
「自認天使くん。天使のきみが、それを言ってはいけないんじゃないか?」
「……そう。その通り。……私は、どこか壊れてしまったのかもしれない。」
「壊れた……とは、ぼくは思わないよ」
「……じゃあ、気付かないうちに堕天してしまったのかもね。」
「ふふ……だから、きみは振れ幅が大きすぎるんだ。自分の手を見てごらん」
握られていた拳がゆっくりと開かれていく。身体の真横で力の限りを込められていたそれを、青年は静かに視界に捉えたようだった。
「その手には何が乗ってる?」
「……なにも。なにもないよ。」
「ぼくはそうは思わない。いまのきみのその手には、確かに、空気が乗ってる筈だ」
「……それは、そうだけど。」
「まあ、もしかしたら花粉とか、ウイルスとか。なんかちっちゃい物質たちも乗ってるかもね」
「それが、なにか?」
「そのまま手を開いていてね。……はい。きみにはこれをあげよう」
傷一つない手のひらに、ぼくはポケットから出した飴を置いた。
青年はわずかに首を傾げたようだ。正面から差した太陽の光が眩しい。
「……ありがとう。いただいていいの?」
「もちろん。良ければいま食べても——」言い終わる前に、彼は包みを開いて口に含む。「——どう?美味しい? 何味だったかな」
「りんご……いや、……いちご?」
「ふんふん。まあ、何味でもいいんだけどね。ぼくもひとつ食べようかな」
「……甘くて、とても美味しいよ。」青年の声色が柔らかくなった。それを聞いて、ぼくも返すように微笑む。
「そうでしょう、そうでしょう。甘いものっていいよね」
「君は、何味だったの?」
「うん。それだよ自認天使くん。」かろん。甘味の権化を隅に追いやって、待っていた問いの答えを口にする。「きみは、ぼくの食べた飴の味を知ることはできない」
ぴたり、と青年の動きが止まった。
「遠回りしたけど——きみも身の丈にあった視座で物事を捉えたほうがいい。無理に全部を見ようとしなくてもいいんだ」
「……でも、」声に震えが混じる。
「きみは、きみが触れたものしか知り得ない。それはさっき手のひらに乗った飴の包み紙の感触や重さ、いま舐めている飴の味——きみが感じてる範囲だけでいいじゃないですか」
「……でも! 私たちは、君たちにも愛をっ、」
「違う。“たち”じゃなくて、“私”だけでいい」
はく、と、青年が息を飲み込む音が聞こえた。
「周りに、無理に自分を組み込まなくていいんだよ。きみはきみでしかない。きみだけしかきみになれない。他の誰かまで抱え込むことはない」
逆光は青年の影を濃くしたようだった。「……私は……父に創られたのに、」縋るようなそれは、ぼくには助けを求める幼子の手として耳に届いた。
だから言わなければならない。彼の言葉を。
「そうだね。その父は、同じものはひとつとして創らなかった」
影が揺れる。
「世界は綺麗だよ。父の御業は素晴らしい。全て違う個であるのに、こうして美しく成り立ってる。」強張っていた何かを解く手助けでいい。「いくら言葉を擦り合わせても、存在は同一になれない。……きみはそんな世界を好きと言ったんだよ」
「……うん……。」
「いいじゃない。天使の中でひとりくらい、父の作った仕組みに異を唱える天使がいたって。きみは父への疑問を裏切りだと感じたのかもしれないが、そんなことはないはずだよ。もし本当に父の意向から逸れているのだとしたら、そもそもきみはそんな考えに至らないだろう? ——天上に座す父は、全てを異にして世界をお創りになられた。ただそれだけ」
「……私が、父が定めた罪の形を疑っても……父はそれをお赦しくださると……?」
「赦す、という解釈が違う。——全ては在るがままに在れ。ぼくらがいる世界は、そういう世界なんだよ」ころん。飴を反対の頬へ寄せる。「だから、ぼくはきみが壊れたとは思わないし、堕ちたとも思ってない。自認天使くんは自認天使くんのまま、罪の在り方について悩める存在だったというだけだ」
青年は動かない。握っていた拳は開かれたまま、飴の包み紙を乗せた手だけが青年の視界に入っている。
ぼくは目を瞑る。眩しい太陽から逃れたかった行動は、けれども、瞼の裏を白くするだけだった。
「身の丈にあった視座。」前方から、ぽつりと声が落ちてきた。「私という、個。」その声に痛みはなかった。ただ、確認するように——自分の中へ染み込ませるような声色だった。
「私は、この世界が好きなんだ。」
「……ふふ、いい声になったね」
「ええ。……“私が”この世界が好きなんだと、気付き直せて良かった。」
「うんうん。大きすぎる仕事は全部上に放り投げてしまうといいですよ。きみはきみの仕事をすればいい。」
白かった瞼の裏がさらに白くなった。目の前にあった圧がふわりとやわらぐ。目を開けると、笑みを湛えた青年がぼくと目線を合わすように屈んでいた。
「ありがとう。」さらに目を細めて青年が微笑む。自認天使くんがぼくの手を取った。「貴方の幸せを、私は願っています。」
「……ぼくも、きみのしあわせを願っていますよ。きみの毎日が良いものであるように」
青年は驚いたように目を見開き、それからゆるやかに微笑んだ。
その笑顔は、たしかに“何か”から自由になった人間のそれだった。
きみの手のひらに在るすべてと まど @8cycle
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