『暁月夜』

逢雲千生


 

 桜の花に梅の香りがまとわれていてやなぎえだに咲いている。

「彼女はそんな姿なのだ」と、噂で聞くだけでも興味をそそられるというのに、将来を約束した相手も、想いを寄せる相手もいないまま、いまだに一人で暮らしているという噂まであるのだから、世間で有名になったことで、風流なことを好むみやの心を動かしてしまっているとのことだ。

 彼らの中には、さんちゆうの湧き水でできた井戸を探すかの如く、夢中で思い焦がれた人もいたとのこと。

 彼女の実家であるはなざくらやまの名が耳に入れば、門にかけられた表札にあるじゆさんを読むまでもなく、同じぞくの中では「その人あり」と知られるほど有名な家だ。

 当然、一般人にも周知されていて、その名前を聞けば「ああ、あの家ね」とすぐにわかる。

 清らかな水が流れる江戸川という川の西側に、川沿いの真横に建つ今時のやしきは、和と洋が無理矢理合わせられた造りで、それほど立派で美しいとは言えないが、通り過ぎる人の足は止まる。

 その理由は、香山家の庭に植えられた樹木が美しいからだ。

 ここら辺では珍しく、様々な種類の樹木が植えられているため、一年を通して美しい庭と評判なのだそうだ。

みずみずしいみどりの松の木に混じって紅葉もみじが見えるおやしきは?」と地元の人に問いかければ、江戸川にかかるなかはしが、表面のはしいたごと震え、あの家を紹介された人々の足で大きく鳴り響き続けるほど有名な場所でもある。

 元からそうして人々に知られる家ではあったが、それ以上に一人の女性への強い関心が向けられているのだから、知らぬ人はいない家と呼ばれるのも当然なのだろう。

 それはそうと、世間の人々が把握しているのはそれだけではなく、飾り気がなくとも称される令嬢ひめの美しい容姿は、彼女が幼い頃から評判だったという。

 噂のれいじようには、姉と妹と、兄弟姉妹が多く、それぞれも美しい容姿をしているのだとか。

 しかし、そんな同じ親を持つ姉妹でも、特に美しいと評判になった彼女は、幼児用のげを着ていた頃から噂のまとだったそうだ。

 すそを引きずらないようそでが邪魔にならないようにと、小さい子供は肩の部分や腰の部分を詰めて縫い上げられる。

 その姿はとても愛らしく、体の小さい子供ほど布のヒダが大きくなるため、ブカブカな格好が一目見てわかるのが、また愛らしい。

 誰も彼もが同じ姿をしているが、噂の令嬢は愛らしさの中に美しさがあり、将来は美人になると誰もが予想していたことだろう。

 そんな子供が成長していくのだから、「いやもうわかむらさきの将来は――」と、期待と想いを寄せる心でびる人も多かったが、そう簡単には上手くいかないものだ。

 ひかるげんと呼ばれる美しい男に育てられた少女は、光源氏の初恋の女性にあやかって「わかむらさき」と呼ばれるようになる。

 若紫は光源氏の元で育てられ、彼の期待通りに美しい女性へと成長し妻となるのだが、それは「若紫」の話だ。

 しんれきで二十八年目となる今年、かの令嬢は二十歳になった。

 彼女の姉妹達には相手となる男性がいる中で、彼女は浮いた話一つなく実家に残っている。 

 彼女を想う人々の気持ちもむなしく、いまだに相手となる男性の名前一つ浮かばずに、一人で長い夜を過ごしているのだとか。

 どうしたことか、どこまでも思いやりのある、両親を心配する子供としての、おやこうこうをしようというこころづもりのように思えることだろう。

 彼女が長男、もしくは男子であれば「いずれは年老いた親の面倒を見るために、家に残るつもりなのだろう」とひとまず納得はできるのだろうが、あれほどの美貌を持つ女性が、恋の一つもせずに家にいるのだ。

 そんな彼女のちちぎみははぎみは、年頃を過ぎてきた娘を心配しているのだろう。

 どこからか見合い話を持ってきては、一向に首を縦に振らない彼女に縁談を持ちかけ続けているそうだ。

 若者が家に残っているというのは、男子であっても人の噂にのぼるというのに、美しい年頃の娘が、相手もなく一人で家にいるのは、いくら可愛い我が子であっても不安になるというもの。

 せめてどこかに嫁入りさえしてくれれば、誰が夫になっても大事にしてくれるだろうと考えてのことだろう。

 どんな人が良いか、この人はどうかと彼女に相談を持ちかけなさったそうだが、その度に彼女は、同じことを話されたのだという。

「娘としてわがままではありますが、わたくしは一生独り身で暮らしたいという願いがございます。お父様とお母様のお言いつけにそむくのはつみぶかいことではありますが、こればかりは私も譲れません。どうかお願いいたします」と、詳しい説明も言い訳もないまま、気持ちが変わることなくいやいやと断り続けているため、ついには世間に、不吉で不愉快なあだ名で知られるようになってしまった。

 世間というは狭いもので、誰がそう呼んだかはわからないが、気がつけば誰もが令嬢をそう呼ぶと、「ああ、香山家のあの方ね」とわかるほどになり、両親も兄弟姉妹もさぞ肩身が狭いことだろう。

 見合い話はなりを潜め、令嬢に紹介されたという男達の噂が耳に届くことは少なくなっていった。

 さすがにそこまで言われれば、彼女も我が身を恥じて見合い話に乗り気になると予想した者もいたが、選択肢が少なくなっていっても、当の本人は、乙女の時間の短さすら気にもかけなかったそうだ。

 令嬢としても女性としても、限りある初々しい時間をそのままに、深まっていく歳の重なりを惜しみもせず、ただ静かに、季節の美しさをもよおごとと共に楽しんでいるだけで、いつまでも少女のままであろうとしてかのようだ。

 彼女にしてみれば、わざとではないのだろうが、世間の人々がどう言っているのかなど知りもしないのだろう。

 表に出てくることがほとんどないため、世間の噂など、彼女には壁の向こうの世界なのかもしれない。

 香山家は有名なだけあって、毎年何かしらの大きなもよおものがある。

 ぞく、華族を中心に、時折こうぞくも招待されるほどのおごそかで華やかなものが多く、それなりの地位としんぼくがあれば招いてもらえるほど敷居の低いものだという。

 そんな催しがあるのならば、令嬢目当てに男性達が集まりそうだが、そう上手くいかないのが身分と交友というものだ。

 一部の男性は、親でも祖父母でも繋がりを見つけて招待状を手に入れるが、ほとんどの男性は香山家との繋がりが一切ない。

 親戚にも友人にも香山家と知り合いの者はおらず、ここでほとんどの男性が諦めざるを得なくなるのだ。

 映画鑑賞や音楽会などを催すぜんかいに招待されたいという願いも、香山家との親睦や交流がなければ叶わず、香山家で催されるえんゆうかいという名のガーデンパーティーに参加しようにも、くちえを頼めるアテがあるわけでもない。

 そのほかの催しに参加しようにも、もなければ家同士の繋がりを得ることもできない人が多いため、涙を呑む男性達がどれほどいるか想像しやすいだろう。

 しかし、そういった香山家主催の催しに参加することでしか、めったに表に出てくることのない令嬢を見ることすらできないのだから、これがまた噂のたねになるのだ。

「そもそも、あれほど有名な名家と繋がりを持ちたいなんて、無謀もいいところなのだから、さっさと諦めて、次の恋を探したら良いのになあ」

 キセルを片手に、けだるい表情でそう言った青年は、しんそこ面倒だと顔に出してきゆうをとった。

「ただでさえ、たかはなとして手の届かないところにいるというしんきように苦しむ人が多いと聞くのに、ああも表に出てこないとなれば、興味のなかった人でさえも、物珍しさに興味を持つというものだ。君だってそうだろう?」

 急須でいれた緑茶を差し出すと、少年はお礼を言って茶碗を受け取った。

「それは、俺のことをからかって言っていますか?」

 ばちの上にあったヤカンの湯が熱かったのか、唇をつけただけで眉をひそめた少年は、けだるげに笑う青年に尋ねる。

 青年は「そう聞こえたならそうだろうね」と答えると、自分の分をいれて茶碗を持ち上げる。

 この青年はいつも、小指以外の指先で湯飲み茶碗を持ち上げるため、出入りの手伝いにしょっちゅう怒られているのを見ている。

 今日は手伝いの人がいないため、普段は人目を気にすることでも本人がいなければ平気でやってしまうのだから、この人はずる賢いと言われるのだ。

 少年は冷め始めた緑茶を一口飲むと、「それで」と話を切り出す。

「例の令嬢について、教えてくださるんですよね?」

 少年の言葉に、青年は笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『暁月夜』 逢雲千生 @houn_itsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ