音なき神隠し
月雲花風
プロローグ:日常のひび割れと微かな不安
夜明けを告げる鳥たちのさえずりで、三塚雪は目覚める。障子越しに差し込む朝日は、まだいくぶん頼りないものの、その光の粒一つ一つが、古びた畳の上にささやかな希望を撒き散らしているかのようだった。しかし、雪は目覚めるたびに、体の奥底に重く沈む鉛のような感覚と、薄い膜を隔てたように遠い現実との間に、いつもと変わらぬ違和感を覚える。それは彼女にとって、もう数週間も続く、慣れ親しんだ日常のひび割れだった。
学校では、親しい友人と他愛もない話に興じる時間もあった。彼女が心から笑えているのか、それとも無意識のうちに作られた表情を貼り付けているだけなのか、雪自身にも判然としない。ただ、友人たちの屈託ない笑顔や弾む声が、時に彼女の耳には遠く、まるで深い水の底から聞こえてくるかのように響くことがあった。人の温かさも、そこから滲み出るかもしれないわずかな悪意も、雪にとっては等しく恐怖の対象だった。だからこそ、彼女は常にうつむき加減で、他者の視線と交わることを頑なに避けて生きている。自分の内側だけで全てを完結させ、誰かに頼ることなど、およそ考えられないことだった。
放課後、人通りの少ない古い商店街を歩いて家に帰る。錆び付いたシャッターの店、色褪せた看板、どこか懐かしい埃っぽい匂い。見慣れたはずの風景が、しかし、時折一瞬だけ奇妙に歪んで見えることがあった。アスファルトの道が波打ち、遠くの山並みが蜃気楼のように揺らぐ。目を瞬かせれば元に戻る幻覚に、雪は密かに恐怖を募らせた。
特に顕著だったのは、胸の奥底に巣食う、漠然とした、しかし絶え間ない不安感だった。それはまるで、遠い昔に忘れ去られた何かが、深い眠りから覚めようとしているかのよう。古くからこの地元に伝わる「忌神」の物語が、ふとした瞬間に頭をよぎることがあった。山奥に住み、人々の心に忍び寄る禍々しい存在。けれど、雪はそれを単なる迷信として、思考の片隅に追いやる。そうするより他に、この不安の正体と向き合う術を持たなかったからだ。
ある日の夕暮れ、空が茜色に染まる頃、雪は幼い頃に母とよく訪れた、町外れの小さな祠の前を通りかかった。ひっそりと佇むその祠に祀られた道祖神は、いつもと同じく、風雨に晒され丸くなった石の像だった。表情は穏やかで、ただ静かに町を見守っているように見えた。だが、その日、雪は道祖神の目が、なぜか自分の心の奥底を見透かすような、凍てつくような視線を放っているように感じた。
心臓がドクンと大きく鳴り、全身が硬直する。思わず立ち止まり、背後を振り返った。しかし、そこにはただ風に揺れる木々のざわめきと、夕陽に赤く染まった空が広がるばかりで、何も異常はなかった。人影もなく、動物の気配すらない。それでも、雪の心臓は激しく、不規則なリズムで鼓動を続けていた。耳の奥で、自分自身の血潮が暴れる音がする。息が詰まるような圧迫感に、雪は逃げるようにその場を後にした。
その夜、雪はまた悪夢にうなされた。
広大な闇の中に、たった一人取り残されている。どこまでも続く漆黒の空間に、自分の存在だけがぽつんと浮いている。遠くから聞こえるのは、不気味で耳障りな声。それは粘りつくような、地面を這うような、形容しがたい音色で、雪の名前を繰り返し呼ぶ。
「ユキ……ユキ……」
声は次第に近づき、そして無数に増殖していく。闇の中から伸びてくる見えない腕が、全身を掴んでくるような幻覚に、雪は必死にもがき、声を上げようとするが、喉は張り付いて何も音を紡ぎ出せない。身動き一つ取れないまま、その恐怖に飲み込まれていく――
ハッと息を呑んで目が覚めた。額にはびっしりと冷や汗が浮かび、心臓はまだ夢の残滓を引きずるように激しく鳴り響いている。
部屋の窓から差し込む月明かりは、いつもよりも冷たく、そしてどこか青白い光を帯びているように感じられた。それは、穏やかな日常にできた、取り返しのつかないひび割れを、より鮮明に映し出しているようだった。
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