第二章 其ノ七 藍の想い、白梅の祝福
道の途中、お蘭がふと足を止めた。
「紗江様、ご覧ください」
小さな茶屋の軒先に、子どもたちが集まっていた。そこには、紗江が宿屋で作った”エプロン”を着けた少女の姿。彼女はお茶を運びながら、誇らしげに笑っていた。
「あの時の宿屋の娘じゃないかしら」
お蘭が目を細める。
「紗江様の仕立てた前掛けがよく似合っていますね」
「本当だ。気に入ってくれて良かった」
「今、何とおっしゃいました。あの前掛けは紗江様がお作りになったものでございますか」
振り返ると、清之助が目を輝かせている。
「あの前掛け、ぜひ越後屋で作らせていただけませんか。儲けの四割——いや、五割はお支払いいたします」
必死の形相で紗江に問う。
紗江が少し困った顔をした。
「その件は、江戸に帰ってから私が伺います」
お蘭が目を細めた。
(清之助……やはり、油断ならん)
「さあ、江戸に帰るとするか」
葵の一言で、一行は再び歩き出す。
――紗江拵え
戦の疲れを癒すように、皆は久しぶりの安らぎを感じていた。
「これでしばらくは平和ですね」
お蘭が茶を注ぎながら微笑む。紗江も微笑み返した。
その時、
「紗江殿!」
庵の戸口から声がした。顔を出したのは越後屋の清之助だった。手に試作品の前掛けを掲げている。
「これ、あの時の前掛けですが、もう江戸で噂になっていますよ」
お蘭がすぐに眉を上げた。
「もう始めたんですか。また商魂たくましいですね」
「もちろん、紗江殿にはきちんと分け前をーー」
紗江は笑って首を振った。
「お金のことはいいの。それより、作るなら布地の質を落とさないで。着る人が心地よく過ごせるように、そこは譲れませんよ」
清之助は感心したように頭を下げた。
「さすが紗江殿。では、“紗江拵えの前掛け”としてお売りいたしましょう」
紗江は嬉しそうに笑った。
「清之助さんの商才ね。本当に、頼もしい方だわ」
けれど、その日を境にーー
江戸の町では、茶屋の娘も、旅籠の女中も、職人の妻までもが色とりどりの前掛けを身につけるようになった。
淡い藍、桜色、生成りの木綿。胸元を守る形と、肩にフリル、ふんわりとした裾のフリル。見る者の心を明るくするその姿は、いつしか”紗江拵え”と呼ばれるようになった。
働く娘たちの憧れとなったその前掛けは、今や江戸中の茶屋や宿屋で見られるようになっていた。
――清之助の決意
その日、越後屋の店先。
若旦那・清之助が帳簿を広げていた。“紗江拵えの前掛け”が評判を呼び、越後屋にも注文が殺到している。
清之助は紗江に会う口実を探していた。
(そうだ、前掛けの新しい意匠をお願いに行こう)
「清之助」
店の奥から父親の声がした。母も一緒だ。
二人とも、いつになく真剣な面持ちで座敷に座っている。
「父上、母上……どうなさいました」
清之助が座ると、父が口を開いた。
「清之助。お前ももう二十四だ。いつまでも独り身というわけにはいかん」
母が続ける。
「隣町の染物問屋、紺屋源右衛門殿の娘御のこと、覚えておいででしょう。器量もよく、しっかり者と評判です」
清之助の表情が固まる。
「先方からも、ぜひにとのお話をいただいています」
父が帳簿を指さした。
「この”紗江拵え”の売れ行きを見よ。染物問屋との繋がりがあれば、より良い布地を安定して仕入れられる。商いはさらに広がり、職人たちの暮らしも潤う」
「越後屋を継ぐ者として、お前には責任がある」
父の声に、有無を言わせぬ重みがあった。
母が優しく微笑む。
「清之助。あなたの気持ちは、母にはわかっていますよ」
清之助がハッとして母を見る。
「けれどね……想いだけでは、家は守れません。商いも続けられません」
母の目が少し潤んでいた。
「あなたが跡取りでなければ、私は何も申しません。けれど、あなたには越後屋を背負う責任がある。どうか……現実をご覧なさい」
清之助は俯いた。
「……少し、考えさせてください」
父が低い声で言った。
「来月の初めまでだ。それまでに返事をせねばならん。先方にも失礼があってはならぬ」
「はい……」
両親が去ると、清之助は一人、座敷に残された。
窓の外には、藍染めの反物が風に揺れている。
(紗江殿……)
胸の奥に、温かくて苦しいものが広がる。
彼女の横顔、布を扱う指先、そしてふと見せる微笑。どれも心を掴んで離さない。
けれど、あの優しい眼差しの先にいるのは、葵様だと知っている。
葵様のあの凛とした眼差しにだけ、紗江殿は柔らかく微笑む。
私に向けられたものではないのに、その表情を見るだけで幸せになれた。
(……来月の初めまで、か)
清之助は帳簿を見つめた。紗江拵えの注文は今も増え続けている。染物問屋との繋がりがあれば、より良い布地を安定して仕入れられる。商いは広がり、職人たちの暮らしも潤う。
父と母の言う通りだ。
(越後屋を継ぐ者として……商いを大きくする責任がある)
清之助はそっと目を閉じた。
(……その前に……思いだけは伝えよう)
ーー告白
その日、澄月庵の門が叩かれた。
紗江が戸を開けると、そこに清之助が立っていた。彼はいつになく真剣な面持ちだった。
「紗江様……お忙しいところ、申し訳ございません。少し、お時間をいただけますか」
「もちろん。どうぞ、こちらへ」
紗江は彼を客間へ通した。お蘭は気を利かせて席を外し、二人きりになる。
静寂が落ちる。
湯気の立つ茶碗の向こうで、清之助が深く頭を下げた。
「このたびは、“前掛け”の件で本当にありがとうございました。おかげで越後屋も息を吹き返しました。すべて、紗江様のお力です」
「そんな……私はただ、作りたいものを作っただけです」
紗江が微笑む。
「清之助さんの真面目なお仕事ぶりが、皆を惹きつけたんですよ」
清之助は少しだけ笑った。
「そう言っていただけると、救われます」
彼は茶碗に視線を落とした。
しばらく、誰も何も言わなかった。
庭の木々が風に揺れる音だけが、静かに響く。
清之助の手が、わずかに震えていた。
紗江はそれに気づいたが、何も言わなかった。
ただ、待った。
やがてーー
清之助が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、まっすぐに紗江を見つめていた。
「——実は、私に縁談の話が参りまして」
紗江の表情が、一瞬だけ固まった。
「……そう、ですか。良いお話なのですね」
「ええ。お家も立派で、娘御も評判の方だとか。母もたいそう喜んでおりまして」
言葉を選びながら、清之助は茶碗を両手で包んだ。その手が、震えている。
「けれど……その前に、ひとつだけ申し上げたいことがございます」
紗江が息を呑む。
空気が、張り詰めた。
清之助はまっすぐに彼女を見つめた。その瞳に、曇りも迷いもなかった。
「紗江殿……」
声が、かすかに震える。
「私は、貴女に恋をしておりました」
紗江の息が、止まった。
時が、止まったかのようだった。
風の音も、鳥の声も、すべてが遠のいた。
「初めてお会いしたあの日からーー誰よりも強く、誰よりも美しいと思いました」
清之助の声が、静かに響く。
「貴女の笑顔を見るたびに、胸が苦しくなりました」
「貴女が布を扱う姿を見るたびに、心が温かくなりました」
「貴女と話すたびにーーもっと、そばにいたいと思いました」
紗江の目が、潤んでいた。
清之助は、穏やかに微笑んだ。
「けれど、紗江殿のお心がどなたにあるのかも、わかっております」
「その想いを乱したくはございません」
「ですから……この想いは、今日限りにいたします」
彼は風呂敷を解き、藍染の反物をそっと取り出した。
「これは、私からの最後の贈り物です」
「“縁結び”の色として染めました」
「どうか、貴女の夢が誰かと共に結ばれますようにーー」
紗江は、そっとその布を受け取った。
胸の奥が、熱くなる。
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「清之助さん……」
声が、震えた。
「ありがとうございます。貴方の想いは、とても嬉しいです」
「どうか、幸せになってくださいね」
清之助は深く頭を下げた。
そしてーー微笑んだ。
「はい。これで、ようやく胸を張って縁談を受けられます」
二人の間に、静寂が流れた。
清之助は少しスッキリした気分だった。
――三人の想い
庵を後にした清之助が門を出ると、道の向こうから二つの影が現れた。
蓮と無刄だった。
「おや、清之助殿。珍しいところで」
蓮が声をかける。
清之助は軽く頭を下げた。
「……私、紗江殿にお別れを告げて参りました」
その声が、震えていた。
「実は、父と母が申すのです。“そろそろ身を固めてほしい”と。先日まで、気が進まなかったのですが……ようやく、心が決まりました」
蓮と無刄は、何も言わなかった。
ただ、静かに清之助を見つめていた。
清之助は、笑おうとした。
でもーー
その笑顔が、歪んだ。
「すみません……少し……」
清之助の目から、涙がこぼれた。
「すみません……私……」
声が、途切れる。
肩が、震えた。
蓮が、すっと清之助の肩に手を置いた。
「……よく頑張ったな」
無刄も、反対側の肩に手を置いた。
「……辛かったな」
清之助は、声を殺して泣いた。
蓮と無刄は、ただ黙って清之助の肩を支えていた。
三人は、同じだった。
同じ人を、想っていた。
同じように、届かないと知っていた。
同じように、諦めなければならなかった。
だからーー
言葉はいらなかった。
ただそばにいるだけで、わかった。
しばらくして、清之助が顔を上げた。
「……すみません。お見苦しいところを」
「いや」
蓮が首を振る。
「お前は、強いよ」
無刄が頷く。
「想いを伝える勇気……俺には、ない」
「俺も……ない」
蓮が空を見上げた。
「でも、お前は伝えた。そして、前に進む」
「それは……とても、勇気のいることだ」
清之助は、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます……お二人とも」
三人は、しばらく空を見上げていた。
夕日が、三人を優しく照らしていた。
――婚礼の決意
その夜、越後屋の奥座敷。
清之助は父母の前に座り、静かに言葉を口にした。
「……お話の縁談、私にお受けさせてください」
母は目を潤ませ、父は頷いた。
「よく決心した。染物問屋との縁組は、越後屋にとっても良き縁となるだろう」
父の言葉に、清之助は深く頭を下げた。
その胸の奥には、どこかまだ痛みが残っていたがーーそれでも、心は前へと歩き出していた。
越後屋を継ぐ者として。そして、一人の男として。
――婚礼
冬の気配が忍び寄るころ、江戸の空は高く澄んでいた。白い息が街角に浮かび、行き交う人々の声がどこか弾んでいる。
「……そうか、清之助殿の婚礼、今日だったな」
葵が呟く。
澄月庵の庭では、紗江が包みを整えていた。
薄青の反物に、手ずから染め抜かれた白梅の文様。そして小さな札には紗江の筆でこう記されている。
『ご新婦へ。これからの人生も、清らかで幸せな日々がずっと続きますように』
お蘭が背後から覗き込む。
「素敵……。清之助さん、泣いちゃうかもしれませんね」
紗江は少し笑って首を振った。
「この藍は、“はじまり”の色。清之助さんが選んだその道が、どうか穏やかで幸せな日々につながっていきますように……と思って」
葵は黙って包みを受け取った。
「届けてくる。……紗江の言葉を伝えてこよう」
――白梅の祝福
越後屋の奥。
婚礼の賑わいの中で、清之助は新しい紋付に身を包んでいた。落ち着いた笑みの裏に、少しだけ緊張の色が見える。
「葵様……。わざわざお運びくださるとは」
「祝いの言葉を届けに来ただけだ」
葵は包みを差し出した。
「紗江より。藍で染めた反物だ。新しい門出にと」
清之助は一瞬、息をのんだ。震える指先で包みを解くと、そこに現れた白梅の文様が光を受けて揺れた。
「……ああ……藍の香りだ」
清之助は目を閉じ、しばし布を撫でる。その頬を伝うものを、誰も見ぬふりをした。
「これでようやく、本当に終わった気がいたします」
葵は静かにうなずく。
「終わりではない……縁とは、続いていくものだ」
清之助は微笑んだ。
「紗江殿は……お変わりなく」
「相変わらず忙しい。おまえの染めた藍に刺激を受けてな」
「それは……光栄なことです」
清之助は布を胸に当てた。
「この縁組で、越後屋は染物の仕入れが安定します。紗江殿の作る物を、もっと多くの人に届けられるーーそれが、私にできることかと」
葵は清之助を見つめた。
「……おまえは、立派な商人だ」
ふたりの間に、しばし穏やかな沈黙が流れた。
「葵殿、伝えてください。……ありがとうございました、と」
葵はまっすぐに頷いた。
「必ず伝える」
そのとき、奥から新婦の控えの間の襖が静かに開いた。
薄紅の打掛に身を包んだ新婦が、恥じらいながらも清之助を見つめている。
清之助は、ハッとした。
今まで自分は、この人の顔をきちんと見ていただろうか——。
こんなに自分のことを真っ直ぐに見てくれるこの人を……
清之助は一歩近づき、新婦の瞳を見つめた。
「……これから、あなたと共に幸せになりたい。そして、あなたを幸せにします」
新婦の目に、涙が光った。
そして静かに、深く頷いた。
――新たな風
その夜。
澄月庵の灯が静かに揺れていた。
「ごめんくださいませ」
控えめな声に振り返ると、戸口に一人の若い娘が立っていた。髪をきっちりと結い上げ、身なりは質素ながら清らか。その胸に抱えていたのは、紗江が仕立てた小さな鞄だった。
「その鞄……もしかして」
紗江が思わず声をあげると、娘は深くうなずき、頬を赤らめた。
「はい!紗江様のお作りになった物でございます。大切に使わせていただいております」
紗江が微笑んだ。
「ありがとう、とても嬉しいです」
何かもじもじと落ち着きのない様子だったが、紗江が「どうしました?」と声をかけるとーー
「……どうか、私を弟子にしてくださいませ」
恥ずかしそうに顔が真っ赤になったが、真っ直ぐに紗江を見つめている。
思いもよらぬ言葉に紗江とお蘭は驚いた。
「弟子?いえいえ、とんでもない。私には弟子なんて……」
だが娘は一歩踏み出し、必死に頭を下げる。
「弟子が難しければ、どんなことでもいたします。どうか、おそばに置いてくださいませ」
その声が、震えていた。
その手が、震えていた。
全身から、必死さが伝わってきた。
紗江は少し考えてから、尋ねた。
「……では、縫い物はできますか?」
「はい、得意でございます」
紗江は近くの手ぬぐいを手に取って差し出した。
「では、これで雑巾を縫ってみてください」
そう言って針箱を取りに立ち上がろうとすると、娘は首を振った。
「大丈夫です。針と糸は、いつも持ち歩いておりますので」
懐から取り出したのは、小さな携帯用の針箱。娘はすぐさま手ぬぐいを広げ、迷いのない手つきで針を走らせた。
シュッ、シュッ。
わずかな時ののち、見事に仕立てられた雑巾が差し出された。
「まあ……!」
お蘭の口から感嘆の声がもれる。針目は細やかで整い、仕上がりには無駄がない。
「すごい!即戦力だわ!」
お蘭と紗江は目を輝かせた。
「いつからお願いできますか?」
「両親に話してまいりますので……明日から参れます」
「そうだ、まだお名前を聞いてなかったわ」
「梅と申します。十六になります」
「では、お梅ちゃん。明日からよろしくお願いします」
その瞬間ーー
お梅の膝から、力が抜けた。
「……あ」
その場に、へたりと座り込んでしまった。
「お梅ちゃん!」
紗江が駆け寄る。
「だ、大丈夫です……すみません……」
お梅の目から、涙がこぼれた。
「ずっと……ずっと緊張していて……」
「断られたら、どうしようって……」
「もう一度お願いしようって……何度も何度も考えて……」
声が震える。
「でも……良かった……」
「本当に……良かった……」
お梅は顔を覆って、泣いた。
紗江は優しくお梅の背中をさすった。
「なんだか、私も泣けてきちゃった」
お蘭も微笑む。
「明日から、一緒に頑張りましょうね」
お梅は何度も何度も頷いた。
深く頭を下げたお梅が顔を上げたとき、その表情には安堵の笑みが広がっていた。
それから幾日か過ぎ、夜更けの作業場に、行灯の光が揺れていた。
机の上には、お梅が描いた和小物の図案が並んでいる。
「これ……全部お梅ちゃんが考えたの?」
紗江は思わず手を止め、図案に見入った。
扇子の柄、巾着の刺繍、帯留めの細工。どれも素朴ながらも新しい感性が光っていた。
「お梅ちゃん……お梅ちゃんの作品、とても素敵よ」
紗江の瞳が真剣に輝く。
「商品にしてみない?」
お梅の目が大きく見開かれる。そして次の瞬間、頬が熱を帯び、涙がこぼれそうに揺れた。
「はい……ぜひお願いいたします」
深くうなずくその姿に、紗江の胸も熱くなった。
こうしてお梅の小物は、若い娘たちの間でたちまち評判となった。
そしてーーそれはやがて、江戸の町に新たな流行を生み出していくことになる。
越後屋の清之助が、その才能に投資を惜しまなかったことも、大きな後押しとなった。
紗江の庵には、今日もまた、誰かの夢を紡ぐ糸の音が響いていた。
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