第一章 其ノ十一 町娘の晴れ着
春の陽ざしが澄月庵の庭をやわらかく包んでいた。
紗江は縁側で水面に反射する光を見ていた。
「ねえ、クロ。あの光……布にできたら、きっときれいよね」
膝の上ではクロが丸くなって寝息を立てている。
そこへお蘭が湯気の立つ急須を持って現れた。
「紗江様、お茶をどうぞ」
「ありがとう、お蘭」
紗江が、微笑む。
お蘭が差し出した湯呑みを受け取り、一口含む。温かなお茶が、胸の奥まで染み渡った。
「そろそろ、加賀屋に反物を取りに行きましょうか」
「はい、支度してまいります」
しばらくして二人は加賀屋に向かった。
女将がいつものように明るく迎えた。
「紗江様、お待ちしておりました。お会いしたいと仰る方がいらっしゃいまして」
「私に?」
女将は頷き、奥の部屋へと案内した。
そこには、質素な着物を着た若い娘が不安そうに座っていた。
「あの……紗江様、でしょうか」
「はい。小織紗江です」
紗江が座ると、娘は深々と頭を下げた。
「お願いがございます。どうしても紗江様の仕立てたドレスなる物が欲しくてお願いに参りました」
娘が一息ついて続ける。
「夕霧様の裾の広がったお衣装を見せていただきました。それはそれは美しく、しばらくその場から動けませんでした」
娘はその光景を思い出し、パッと明るい笑顔になった。
「私、来月に結婚するんです。
あんな素敵な衣装で嫁ぐことが出来たら、きっと幸せになれる気がして……
身の丈に合わないのは分かっています。
でも……生涯で一日だけ、あの人の前できれいでいたいんです……」
声が震え、握りしめた両手に力が込められた。
「でも……」
娘は震える手で小さな袋を差し出した。
中には、わずかな銭が入っているだけだった。
「これしか……ございませんで……」
紗江は、そっと娘の手を包み込む。
「では、確かにお預かりします。任されたからには、最高の一着を仕立てます」
「え……よろしいんですか?」
「これで、ドレスを作りましょう。きっと素敵な一着になります」
娘の目に涙が溢れた。
「ありがとうございます……!」
澄月庵に戻ると、紗江はすぐに針箱を開けた。
「白い着物……春の花のような……」
手持ちの布を広げる。
艶のある白い木綿。やわらかいけれど、芯のある布。
「高価ではないけれど、この布には“温もり”がある」
娘の幸せそうな笑顔が浮かぶ。
紗江はゆっくりと息を吸った。
(……よし。時間はないけど、精一杯作ろう)
紗江は布に向き合った。
一針一針、想いを込めて。針が進む。
白い布に、一枚一枚、花びらが咲くように縫い込まれていく。
クロが眠るそばで、夜が更けていった。
その様子を、葵が遠くから見ていた。
「紗江は、誰かの幸せを縫うとき、一番輝いている」
隣に立つ蒼馬が頷く。
「はい。本当に……」
葵は静かに呟いた。
「私は、あの光を守りたい」
蒼馬が静かに言った。
「それは愛ですよ、葵様」
「……愛、か」
葵の胸に、まだ言葉にならない想いが灯っていた。
――数日後
完成したドレスを加賀屋に持っていくと、娘が待っていた。
「出来ました」
広げられた白いドレスは、光をまとったように柔らかく輝いている。
裾いっぱいに花が咲いたように散りばめられ、肩には小花が咲いていた。
「……きれい」
娘の頬を涙が伝う。
紗江は微笑み、そっと差し出す。
「さあ、着てみましょう」
鏡の前に立った。
「お花になったみたい……!」
娘は鏡の中の自分を見つめ、泣き笑いになった。
幸せそうな涙が、頬を伝う。
「本当に、ありがとうございます」
「いいえ。私のほうこそ」
「え…?」
「あなたの笑顔を見られて、本当に嬉しかった」
娘は深く頭を下げた。
「このドレス、一生大切にします」
「晴れの日の後も、この布に新しい息吹を縫い込めたらいいなと思うんです」
紗江は優しく微笑む。
「――そこまでが、私の仕立ての仕事です」
ーー数日後、町のはずれで結婚式が行われた。
白いドレスに包まれた娘は、まるで春の花が咲いたようだった。
幸せそうな笑顔が、周囲を明るく照らしている。
「きれいね」
「紗江様の仕立てなんだって!」
町の人々の声が弾む。
遠くから見ていた紗江とお蘭は、静かに微笑んだ。
「よく似合ってる!」
「はい、とてもきれいです!」
その時、風にまじって微かな気配が背筋を撫でた。
クロが小さく唸る。
(……誰か、いる?)
紗江が振り返ると、何もいなかった。
ただ、春の風が花びらを運んでいた。
ー―澄月庵
葵と紗江は縁側で月を見上げていた。
「紗江」
「はい」
「そなたは……これからもここにいてくれるか」
「ええ。ここが、私の居場所ですから」
葵はそっと紗江の手を握った。
その温もりが、心の奥まで優しく届く。
紗江も、そっと握り返した。
――だが、その月の光の向こう
屋根の上で、ひとつの影が静かに立ち去った。
夜鴉の黒羽――冥。
「……なるほど、あれが小織紗江か」
澄月庵に吹き込む風が、ほんの少し冷たくなった。
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