元禄美装録
月音
第一章 其ノ一 夢と風の導き
元禄七年(1694年)
陰陽師・松雲の庵に、風も立てずに忍びの影が一つ。
障子の外からほのかな灯りが差し込み、蒼馬は静かに片膝をつく。
「松雲様、北の山並みに"兆し"がございました。天の光が裂け、ひとすじの光柱が地を照らしたと――」
松雲は沈黙のまま、水晶に両手をかざしている。
淡い光がゆらぎ、やがて水晶の中に、ぼんやりと人の影が映る。
「……来る」
松雲は印を結び、木札をひとつ火にくべる。
火の粉が舞い上がり、部屋の中に金色の光がふわりと満ちる。
「葵に伝えよ。光の中より現れる者あり。急ぎ日本橋に向かい、その者を助け……そして守れと」
「承知いたしました」
蒼馬は深く頭を下げ、闇へと溶けるように姿を消した。
松雲は昔から徳川に仕えた陰陽師であり、葵が幼い頃からの勉学の師であったが、今はひとり静かに暮らしている……。
夜気を裂くように、蒼馬は澄月庵の庭へ音もなく降り立った。
葵は筆を止め、静かに顔を上げる。
「……蒼馬か」
「松雲様より、"光の中より現れる者あり。急ぎ日本橋に向かい、その者を助け、守れ"との伝令がございました」
蒼馬の声は低く、どこか張りつめていた。
葵は眉を寄せた。
「光の中か――急ぐぞ、蒼馬」
葵は身を翻すと、夜の闇に溶け込むように駆け出した。
蒼馬が無言で後を追う。
ーーその頃、現代
小織紗江こおりさえは夢を見ていた。
まばゆい照明。拍手と歓声の渦。
自分のデザインした衣装をまとったモデルたちが、堂々とランウェイを歩く。その中央で、スポットライトに包まれながら、紗江は大きな拍手の中にいた。
瞼がゆっくりと開くと、そこは六畳一間の薄暗い部屋だった。
蛍光灯の白い光。広げたままのノートには、走り書きのデザイン画。袖のラインを何度も描き直した跡がある。机の上には飲みかけのコーヒーと、使い古しの針箱。
「……いつの間にか、寝ちゃったんだ」
幼い頃は児童養護施設で育った彼女は、今、奨学金とバイト代を頼りに服飾の専門学校へ通っている。忙しい毎日だが、自分の手で未来を掴もうと懸命に生きている。
コンビニで五時間立ちっぱなしの後、深夜までデザインを描く。荒れた手、むくんだ足。現実は、あの眩い舞台とは正反対だ。
ふと、幼い頃の記憶がよみがえる。教会のベッドで一人、窓の外を見つめていた自分。
机の上には小さなお裁縫箱。
足元から小さな鳴き声がした。黒猫のクロが、丸まった目でこちらを見上げている。
紗江はクロを抱き上げた。
いつも傍にいてくれる。
「クロ。私、いつか絶対、夢を叶えるからね」
クロは小さく「ニャア」と鳴いた。その金色の瞳が、一瞬だけ光ったように見えた。
時計の針が、午前零時を示した。
空腹を感じて、紗江は顔を上げた。そういえば、夕方から何も食べていない。
(温かいものでも買って来ようかな)
紗江はクロを撫でた。
「クロ、ノースフェイスのダウン取って来るね……」
――その瞬間。
目を開けていられないほどの眩い光。
カタカタ……ガタガタガタッ!
窓ガラスが激しく震え、部屋全体が風に呑まれた。カーテンが大きく揺れ、デザイン画が宙を舞う。
「何!? 何が起きて――」
クロの瞳が、金色に光った。
紗江は思わずクロを抱きしめた。
「クロー!」
眩い閃光が炸裂した。世界が白に塗りつぶされる。
体が浮き、目を閉じた――ほんの一瞬の出来事だった。
足裏に冷たい湿った土の感触。
「……え?」
目を開けると、そこは見知らぬ町。瓦屋根が連なり、着物姿の人々、魚を売る掛け声、遠くで太鼓の音。
「……ここは……どこ?」
紗江は、裸足にジャージ。すぐに周囲の視線が集まる。
「……なんだい……あの格好」
「いやだねえ、気味が悪いよ」
「髪もざんばらじゃないか!」
ざわめきが膨らみ、逃げ場がなくなる。恐怖が喉を締めつけ、足が震えた。
「違います!私は――」
声は震えていた。人垣が迫る。
「……化け物か!?」
「寺の坊さん呼んだ方がよくねえか!」
誰かが竹の棒を拾う。別の男が石を手にする。紗江は後ずさるが、背中が壁にぶつかった。
(どうしよう……もう逃げ場がない……)
クロが前に出て「シャー!!」と低く唸った。
その瞳が、再び金色に光る。
「クロ、だめ!」
――その時
「控えよ!」
空気を裂くような声が響いた。ざわめきが止む。群衆の間を割って、一人の青年が現れた。
緋色の羽織に、黒漆の刀。整った顔立ちに涼やかな瞳、どこか現実離れした美しさを帯びている。
「この娘に手を出すな。私があずかる」
青年は、まっすぐ紗江を見た。その眼差しは、不思議なほど優しく見えた。
青年の後ろから、もう一人の男が静かに歩み出た。
鋭い眼差しで周囲を見渡しながら、青年の隣に並ぶ。
「葵様、この者が例の者でございますか」
葵が静かに答えた。
「ああ、蒼馬。この娘を連れて帰る」
蒼馬は無言で頷き、紗江を一瞥した。
町人たちは顔を見合わせ、口々に囁く。
「葵様だ……」
紗江は息をのんだ。
青年は近づくと、
「歩けるか」
と自分の草履を脱いで差し出した。
「私の名は葵。おぬしの名は」
「私は紗江……小織紗江です」
葵が静かに微笑んだ。
葵は紗江とクロをそっと見た。
「おまえがクロか。よく主人を守ったな」
クロは小さく鳴いた。まるで返事をするように。
「クロの事を……知っているんですか?」
「先ほど、おぬしが名を呼んでおったからな」
葵は振り向き、町人たちに言い放つ。
「この娘は、我が屋敷の客人だ。異を唱える者はおらぬな」
町人たちは押し黙り、道を開けた。紗江は手を引かれるまま、葵と共に暗い通りを抜けていく。蒼馬が無言で後を追う。
草の香りと、どこか懐かしい風。
紗江はふと、葵の横顔を見た。月明かりに照らされたその顔は、月の精のような美しさだった。
やがて葵は微笑む。
「怖かったろう。だが、もう大丈夫だ」
その穏やかな声に、張り詰めていた気持ちが少し解れた。
――柳沢の暗躍
その光景を、遠くから見つめる影があった。
松風亭(料亭)の二階。格子窓の奥。
柳沢吉保は、酒を傾けながら夜の町を眺めていた。
その時、路地の奥で、眩い光が炸裂した。
柳沢は思わず手を止めた。
光が消えた後、一人の娘が立っていた。奇妙な格好。裸足。そして――黒い猫を抱いている。
柳沢の目が細められる。
ずっと昔、大奥の廊下で耳にした、女中たちの噂話が蘇る
(葵様はーー光の中から現れたと)
「……あれは?」
柳沢の声は低く、冷たい。
娘の周りに人が集まり始める。ざわめきが大きくなる。
その時、緋色の羽織を纏った青年が現れた。
「葵!」
柳沢の顔が強ばる。
葵が娘の手を取り、連れ去っていく。
柳沢は立ち上がった。
「夜鴉、いるか」
柳沢が呼ぶと、背後の闇から、黒装束の男が音もなく現れた。
「ここに」
「あの娘を調べろ。どこの誰か」
「御意」
夜鴉が消える。
柳沢は再び窓の外を見た。葵と娘の姿は、既に闇に消えている。
「光の中から現れる者……」
茶碗を置く音が、静かな部屋に響いた。
「葵だけでも厄介なのに……仲間が増えたのか」
柳沢の目に、暗い光が宿る。
「いや……待て」
彼は冷静に思考を巡らせる。
「あの娘、利用できるかもしれぬな」
口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
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