第2話 カップ麺とシルクのドレス
嵐のような夜が明け、風風荘の朝は、安っぽいインスタントコーヒーの匂いと、誰かの派手なクシャミで始まった。
六畳一間の楽の部屋には、昨夜から引き続き、奇妙な顔ぶれが揃っていた。
畳の上、借りてきた猫のように小さくなって座っているのはアリスだ。数百万円は下らないであろうシルクのワンピースはシワになり、彼女は目の前に置かれた「物体」を、未知の生物でも見るかのような目で見つめていた。
「……楽。これ、なあに?」
「それ? 現代日本の知恵の結晶、『スーパーカップ・特製醤油味』だよ。三分待てば、宇宙の真理の一端に触れられる」
楽はあくびをしながら、ヤカンから湯を注いだ。 凛はといえば、部屋の隅で頭を抱えている。彼女の前には、昨夜から放置された就職情報のパンフレットが虚しく散らばっていた。
「……信じられない。有栖川グループの令嬢が、うちの大学の留年候補生のアパートでカップ麺を待ってるなんて。ニュースになったら、この街ごと消滅させられるわよ」
「凛さん、考えすぎだってばー(ユミ)」
「そうだよ。ほら、アリスちゃん。お箸はこう持って、こうやって割るんだよ(エミ)」
双子に挟まれ、アリスはおっかなびっくり割り箸を手にした。パチン、と不器用な音を立てて箸が割れる。それだけのことに、アリスの瞳に小さな感動が宿った。
「……わあ。私、自分でこれをするの、初めて」 「お嬢様、感動のハードル低すぎねぇか?」 隣でボリボリとプロテインバーを齧っている小次郎が呆れたように呟く。
三分後。蓋を開けた瞬間に立ち昇る、暴力的なまでのニンニクと醤油の香りが、高貴なバラの香りを完全に上書きした。
アリスは恐る恐る麺を口に運ぶ。そして、一瞬目を見開いた後、彼女は人生で初めての、下世話で、しかし強烈に「生和」を感じさせる味に、頬を綻ばせた。
「……美味しい。私、こんなに『温かい』ものを食べたの、いつ以来かしら」
その言葉に、部屋の空気がわずかに緩んだ。 だが、その安らぎを切り裂くように、アパートの廊下に、昨日よりもさらに冷徹で規律正しい足音が響いた。
「――失礼する」
ドアが開く。そこに立っていたのは、一条誠だった。
昨夜の黒塗りセダン軍団は引き連れていない。だが、彼が纏う空気は、このボロアパートの現実を容易に突き崩すほどの鋭さを持っていた。一条の視線が、カップ麺を啜るアリスに止まる。
「……お嬢様。そのような、栄養学の欠片もない毒物を口にされるとは。正気ですか」
「一条。私は今、自分の意志でこれを食べているわ」 アリスの声には、昨夜にはなかった微かな「拒絶」の力がこもっていた。
一条は苦虫を噛み潰したような顔で、楽に向き直った。
「海野さん。……昨夜は一時的に引き下がりましたが、本日は正式な『交渉』に来ました。有栖川グループは、あなたが彼女を『匿っている』という事実を、誘拐罪として告発することも可能です」
凛がヒッと息を呑む。小次郎が身構える。 だが、楽はズズーッとカップ麺の残りのスープを飲み干すと、空の容器を置いてふぅと息をついた。
「交渉? 難しい言葉は苦手だな。……一条さんだっけ。君さ、昨夜から一睡もしてないでしょ。目の下にクマがすごいよ。仕事熱心なのはいいけど、責任感が強すぎると、大事なものを見落とすよ」
「貴様に私の仕事を評価される筋合いはない! 彼女を返せ。それが彼女のためであり、この社会の秩序のためだ!」
「秩序ねぇ……。じゃあさ、一条さん。ひとつ勝負しようよ」
楽はひょいと、壁に立てかけてあった錆びたギターを手に取った。
「今日一日、君もここで過ごしてみなよ。お嬢様を連れ戻すんじゃなくて、お嬢様と一緒に、この『無責任な時間』を体験するんだ。それで、もし日が暮れるまでに君が一度も笑わなかったら、俺の負け。お嬢様は大人しく帰す。……どうだい?」
「……馬鹿馬鹿しい。私が笑うだと? このような掃き溜めで?」
一条は冷笑した。だが、アリスが彼の袖をそっと掴んだ。
「……お願い、一条。今日一日だけ。私に、この唄の続きを聞かせて」
アリスの瞳には、一条がこれまで見たこともないような、強い「個」としての光があった。 一条は眼鏡を押し上げ、深いため息をついた。 「……承知しました。ただし、笑うことなど万に一つもありません。日が暮れたら、直ちに連れ戻します」
こうして、世界を動かすエリートエージェントと、名もなきフリーター、そして運命に縛られた令嬢の、奇妙極まる「一日」が始まった。
海野楽が奏でる、あの名もなき鼻歌が、再びボロアパートの空気に溶け込んでいく。 それは、重い責任を背負った者たちの肩を、そっと叩くようなメロディだった。
一条誠が、自身の完璧なキャリアにおいて初めて味わう「停滞」に苛立ちながらも、凛や双子に連れ出されて近所の商店街へと消えていった後、風風荘の二階角部屋には、不自然なほどの静寂が戻っていた。
アリスは、慣れないカップ麺の余韻に浸るように、窓の外を眺めながらうたた寝を始めている。
楽は相変わらず、畳の上に胡坐をかき、錆びた弦を一本ずつ丁寧に拭いていた。その背後に、ウィスキーの小瓶を指先で弄びながら、羽奈が音もなく歩み寄る。
「……いいのかい、海野。あんな賭けをして」
羽奈の声は、アルコールで少し枯れている。彼女はアリスの寝顔を一度確認してから、楽の隣に腰を下ろした。白衣の裾が、埃っぽい畳の上で小さく擦れる。
「一条という男、あれは根っからの『仕組み』の人間だよ。数値と論理で世界を測り、責任という鎖で自分を縛り上げている。あんたがどれだけ鼻歌を歌ったところで、あの鉄面皮が剥がれるとは思えないけどね」
楽は弦を拭く手を止めず、ふっと口角を上げた。 「先生。鉄面皮ってのは、厚ければ厚いほど、一度ヒビが入った時に全部崩れるんだよ。それにさ、彼は別に悪人じゃない。ただ、自分が背負っているものの重さに酔ってるだけだ。……アリスちゃんと同じでね」
「……あんたはいつもそうだ。そうやって他人事みたいに、高みの見物を決め込む。でもね、海野。私にはあんたが、誰よりもその『責任』ってやつを恐れているように見えるよ」
羽奈の鋭い視線が、楽の横顔を射抜く。 楽は一瞬、手を止めた。窓から差し込む斜陽が、彼の瞳を琥珀色に染める。
「……俺が、恐れてる?」
「そうさ。責任を取るってことは、誰かの人生に深く食い込むってことだ。傷つけ、愛し、裏切り、それでも手を離さない……そんな重労働、あんたみたいな『楽をしたい男』には耐えられないだろう? だからあんたは、誰にも深入りさせず、自分も深入りしない。『無責任』という名の透明な壁を作って、その中でプカプカ浮いているだけじゃないのかい」
羽奈の言葉は、まるでメスのように正確に楽の内面を切り裂いていく。かつて大病院の第一線で人の生き死にを「管理」し、その果てにすべてを捨ててこの街へ流れてきた彼女だからこそ、楽の中に潜む「絶対的な孤独」が透けて見えた。
「……先生は厳しいな。俺はただ、楽しく生きたいだけなんだけど」
「嘘だね。本当に楽しく生きたいだけなら、あのお姫様を部屋に入れたりしない。彼女を助けるということは、彼女の背負っている『有栖川』という巨大な怪物と正面から殴り合うということだ。……それはあんたが一番嫌っているはずの、泥臭い『責任』そのものじゃないか」
楽はギターを床に置くと、大きく伸びをして天井を見上げた。
シミの浮いた天井板が、宇宙の地図のようにも見える。
「……俺の親父がさ、死ぬ前に言ってたんだ。『楽、自分の人生を誰かに預けるな。同時に、誰かの人生を預かろうとも思うな。それはお互いにとっての不幸だ』って」
「冷たい親父さんだね」
「いや、逆だよ。親父は誰よりも人を愛して、そのせいで壊れた。だから俺に、執着のなさを教えたんだ。……でもさ、先生。目の前でお腹を空かせて泣きそうな子がいたら、おにぎりくらいはあげるでしょ。そのおにぎりが、たまたま国家を揺るがす特注品だったとしても、お腹が空いてる事実に変わりはない。……俺がやってるのは、それだけだよ」
楽は窓際に立ち、一条たちが戻ってくるであろう路地を見下ろした。
そこには、凛が一条に必死に何かを説明し、その後ろで小次郎と双子が何やら騒ぎを起こしている、騒がしくも温かい日常の景色があった。
「責任を取る勇気がないから、無責任でいる。……そうかもしれない。でもさ、先生。全員が責任感に縛られて、ルール通りにしか動けなくなったら、誰が『逃げてもいいんだよ』って言ってあげるんだ?」
羽奈は、手元の小瓶を飲み干した。
「……傲慢だね、あんたは。でも、嫌いじゃないよ。その空っぽな優しさが、あの子たちの絶望に、ほんの少しの隙間を作っているのは事実だからね」
その時、下から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
見れば、一条誠が――あの冷徹なエージェントが、双子に無理やり着せられた「商店街のゆるキャラ」の被り物を抱え、顔を真っ赤にして凛と口論していた。
「……海野。あいつ、笑ってはいないけど、怒鳴るのを忘れてるよ」
羽奈が窓の外を見て呟く。
楽は再び、錆びたギターの弦を弾いた。 「ほら。世界は案外、適当に回ってる」
夕闇が街を包み込み、ボロアパートに明かりが灯る。 それは、大きな組織やしがらみとは無縁の、ただの人間たちが集う小さな「灯火」だった。だが、その灯火こそが、一条やアリスにとっては、何物にも代えがたい救いになりつつあった。
Maybe it will continue?
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【作風:方向性思案中】
詠み専からの執筆の若輩者です。
これまで作品の拝読と我流イラスト生成がメインでした。
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宜しくお願いします。
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