背徳と呼ばれた令嬢ジュディリスは、聖力と魔力を併せ持つ大聖女の器でした
麦色ろっこ
第1話 プロローグ 背徳令嬢の芝居に付き合う
——[アレン視点]——
ここは帝都中心、トルエンデ邸。
その一室が一組の男女の舞台だった。
窓は開け放たれ、ネロリの甘い香りがほのかに漂っている。
月明かりとランプの橙光が混ざりあう寝台の上で、大柄な男の胸元に、白金色の髪の美女がそっと身を預けていた。
「……本当にやるんだな」
低い声で問われて、女性は微笑んだ。
「はい、疑問の余地が残らないように、お願いします」
この夜、トルエンデ騎士団の団長アレンは、聖女候補ジュディリスの要望に応え、ある誤解を“意図的に”生むための芝居に付き合っている。
ジュディリスが着ている薄衣の襟元を引っ張った指先が、滑らかな肌に触れた。
月明かりに白く浮かんだ肩のラインに、視線を奪われたアレンは——思わずごくりと唾を飲み込んだ。
ジュディリスは真剣な目でアレンを見つめている。
彼女の指先が、アレンの騎士服越しに鎖骨の下をそっとなぞった。
その時、窓から微風が入ってきて、汗ばんだ肌を一瞬涼やかにさせる。
「ふうっ……」
ジュディリスの吐息が、耳元にかかる。
「……涼しくて、いい気持ち」
心地良さげな嘆息が、この場に相応しい艶めいた声にも聞こえて、アレンの胸が鼓動を打つ。
アレンは今、この演技が思った以上に危険なものだったことを、身をもって知った。
清らかな聖女候補でありながら、人々に『背徳の令嬢』と噂されていたのだ。彼女は魅力的すぎる。
が、自分までその彼女に本気で揺れてしまうわけにはいかない。
これは芝居なのだから——。
そんなアレンの心配をよそに、ジュディリスの華奢な指を顎にかけられ、息を呑んだ——。
彼女は狼狽えたアレンの肩を押し倒して、上に跨がる体勢になる。
「……女性に押し倒されるのは初めてだ。俺は押し倒す方が好きなんだが……」
アレンは虚勢を張るしかなかった。
「わたしは背徳の令嬢と言われた女なんですよ? 断然押し倒す方が似合うと思いませんか?」
ジュディリスはそう言ってアレンの文句を封じると、その身体の両脇に手をついた。
けれど、華奢な腕はすぐに震え出す。
あっと思った時には、崩れるように倒れ込んだ彼女の頭が顎にごつんとぶつかり、アレンは痛みに呻いた。
「ご、ごめんなさいっ……、この姿勢って体格差があると、意外と難しいんですね」
そう言うと、ジュディリスはアレンの胸を軽く叩き、筋肉の厚さに感心したように目を丸くした。
「すごく鍛えられていますね」
「当然だ。鍛えているからな」
胸を張ったアレンは「さすがですね」と褒められて、気を良くした。
それに彼女がこんな近さにいるというだけで、なんとなく浮き足立つのも否めない。
ジュディリスは小首を傾げ、じっと彼を覗き込む。その真剣な目つきに、アレンは妙に落ち着かなくなり、慌てて身体の向きを変えた。
結果、上に寄りかかっていたジュディリスがするりと隣へ滑り落ちていく。
「急にどうしたんですか? アレン団長」
「いや、別に……」
首をひねるジュディリスは、ふと思いついたように言った。
「そうだ、団長! 無言なのも不自然じゃないですか? こういう場面って、多少の声は必要だって聞きました」
そう言うと、ジュディリスは試しに芝居がかった声を上げてみせる。
「そ、……そうじゃなくて、もっと秘めやかな感じの声がいいと思う」
アレンは頬を引き攣らせつつ指摘した。
「秘めやかな……? どんな声なんでしょう?」
真顔で問われ、アレンは言葉に詰まる。
「い、いや……その……吐息が混じるというか……落ち着いた、静かな……」
ジュディリスが目を細めて考えるが、どうやらイメージを掴めないらしい。
「……分かりません。団長、ちょっとやってみてください」
アレン団長は耳を疑った。この俺が、まさかそんな声を出すよう要求されるとは思わなかった。
部下たちに聞かれた日には、一生馬鹿にされること間違いないような、そんな声を出せというのか?
ジュディリスの顔を恐る恐る確認してみたが、いたって真剣な表情で、愕然とした。
仕方がない。断腸の思いで覚悟を決めた彼は声を裏返して、柔らかい声音を作る。
「……う、ふん……んっ……はぁ……」
鼻にかかった甘い声は、我ながら上質なできだと思った。おそらく唇もすぼまり、表情まで女性っぽくなっているはずだが、そこは気付かないでもらいたい。
これでどうだ! とばかりにジュディリスの顔を見る。
——彼女は氷点下の氷もここまでかというような、冷たすぎる碧い目を眇めてアレンを見ていた。
……言葉をなくす。
恥辱を堪え、己を捨てて声を出したというのに……、黒歴史が一つ増えただけだった。
アレンは徒労感に項垂れた。
その時、微かに廊下から話し声が聞こえてきた。
いよいよだ、と二人は一瞬動きを止める。
視線を合わせて頷き合った。
ノックと同時に扉が押し開かれ、声が飛び込んでくる。
「失礼します! お嬢様……こちらにいらっしゃいますか?」
アレンにぴったり身を寄せたまま、ジュディリスは彼の肩越しに扉の向こうに視線を送った。
侍女のマノン、背後に金糸の髪を持つギルベアト皇子——そして。
漆黒の髪をした、長身の青年が立っていた。
打ち合わせで、ギルベアト皇子を連れてくるようにと指示を受けていたマノンは、たまたまその傍らにでもいたのか、青年まで招き寄せてしまったようだ。
青年を連れてくるなんて、どういうこと? と言いたげな、抗議の籠ったジュディリスの視線を、マノンは肩を竦めて流した。
ギルベアトと青年の視線は、寝台の二人を捉える。ジュディリスの上気した頬や微かに開いた唇、アレンの肩にかかった彼女の指、緩んだ衣の隙間——その一つ一つを視線が追っていった。
ギルベアトの表情は二人の姿を見た瞬間に凍りつき、視線を動かすにつれ亀裂が入るように痛みをたたえた。
だが、我に返った彼はつとめて冷静な声を出した。
「なるほど、噂通り——というわけか」
声にそぐわない不穏な色をたたえた目を、アレンに向ける。
「だが、——奔放な女性にも、そそられるね」
ギルベアトは、感情を隠したまま余裕ぶった言葉を口にしたが、握りしめた拳には必要以上に力が籠っている。
「お相手はその男じゃなくてもいい筈だ、だろ……?」
顎を上げ、目に侮蔑の色を浮かべてアレンを睨みつけてくるギルベアトは今、怒りと嫉妬に囚われているようだ。
アレンのようには、隣に立つ青年の心の内まで推し量れていない。
青年の静かな瞳の奥には、凍てつくような敵意が滾っていた。
アレンは、この部屋で青年と目が合った瞬間から、自分が青年の殺意の的になったことに気付いている。
今、その標的に新たにギルベアトが加わったことも、いち早く察した。
そして、剣を枕元に置いていなかったことを死ぬほど悔やんでいる。騎士団のトップとしてあるまじき失態だ。
アレンはエリタス神に祈った。自分と、ギルベアト皇子の無事を。殺生沙汰が起きないようにと。
そして心の中で、ギルベアト皇子にも呼びかけた。頼むから……これ以上その青年を刺激しないでくれと。
間違っても、ジュディリスの相手に立候補するなんて言い出さないように、と。
口元を引き結んだまま黙り込む青年の全身から、室内の空気を押し潰しす圧が放たれている。
いつも爽やかな新緑色の瞳は、赤みをたたえた暗緑色に変わり、怒りを押し留めているように見える。
一方のジュディリスは、青年が“彼が”自分たちのしどけない様子を見た、その事実に動揺し、ギルベアト皇子の言葉は既に耳から入らない様子だ。
華奢な肩や手指が微かに震え、呼吸が浅くなっている。そして、目の前の光景を拒むように瞼を閉ざした。
彼女は意に沿わない婚姻を拒むため、自らの評判を落とす覚悟だったが、この事態は想定外だったようだ。
——これは“背徳の聖女”と呼ばれたジュディリスの醜聞作りの一環だった。
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