白く煌めく、天涯の果て
蟹家
第1話 井の中の蛙大海を知らず
【side:カナタ・ローウェン】
鳴り響く剣戟音と歓声が時折響いていた。ごった返す控室の空気は、汗と革鎧の匂い、そして昂ぶった者たちが発する熱気で満ちていた。
俺の周りでは、見慣れない意匠の鎧を身につけた連中が、それぞれの言葉で仲間と気合を入れ合っている。豪奢な装飾が施された騎士剣を入念に磨く、いかにも貴族といった風の男。壁際でひとり、ぶつぶつと魔法式の計算をする少女。誰もが、俺が地元で見てきたどんな猛者よりも強く見えた。
俺はそんな喧騒から意識を切り離し、皮鎧を着込み終えると、右腕に金属製の籠手と肩当てをしっかりと固定する。
「ちっ」
右腕に鈍い違和感。見れば、籠手がわずかに歪んでいた。恐らく、故郷からの長い道のりで荷物に押し潰されたのだろう。昨日のうちに整備しておけばよかった。長旅の疲れにかまけて、やるべきことを怠った自分に舌打ちする。そのせいで腕から少し浮き、収まりが悪い。
「カナタ、お前はミナト伯爵領の希望だ」
故郷を発つ日、ミナト伯爵から直々にいただいた言葉が蘇る。馬車に乗り込む俺にぎこちない笑顔で「体に気をつけて」と繰り返す母と、黙って俺の肩を強く叩いた父の武骨な手。
領地中の皆が、まるで自分のことのように喜んで、俺を送り出してくれた。あんな顔をさせておいて、装備の不具合ひとつで負けるわけにはいかない。
腕を振ってみると、やはり浮いた籠手が動いて邪魔くさい。
「ま、問題ないだろ」
そうだ。この一対一の決闘形式は、俺の最も得意とするところだ。地元じゃ負けなし。だから俺は、地元のミナト伯爵領から初めての入学者として、この聖騎士養成学院に来ているんだ。
右手に剣を持つと、磨き上げられた刃がぎらりと鈍い光を放った。そこに俺の顔が映る。一目で東方出身と分かる黒髪黒目。右頬に走る一本の古い切り傷は、初めて剣を持った日についたものだ。その傷を無意識に撫でると、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
「たまに人死にが出る程度じゃ」
昨夜、寮で同室になったイシドロは、ベッドに寝転がりながら、からからと笑ってそう言った。南方出身の人のいいやつで、故郷の干し肉を分けてくれたりもしたが、学院の噂話となると妙に詳しかった。
「特に今年はヤバいのが揃っとるらしい。”青薔薇”やら”魔眼”やらなんやらがゾロゾロおる。ワシはそういう化け物と当たるのが本当に楽しみじゃ!」
イシドロは俺を脅かそうとしたわけじゃないだろう。だが、その言葉が妙に頭に残っている。俺だってミナト伯爵領始まって以来最強の騎士。だから今ここにいる。
「落ち着け、カナタ・ローウェン。武者震いだぜ、これは」
一人そう呟いて、深く息を吸い込む。肺に満ちた空気をゆっくりと吐き出し、雑念を追い払う。
「おし!」
気合を入れると、ちょうど審判役の先生が俺の名前を呼び、入場を促した。
会場に足を踏み入れると、熱気が肌を焼いた。いくつかの試合が同時に進行しており、剣戟の甲高い音が反響している。空中には無数の
俺が案内された場所には、すでに一人の男が立っていた。
「カミル・イェニークだ。よろしくな」
少し低めの身長。逆立った金髪はまるで蜂の警戒色。色白の肌とは対照的に、吊り上がった目つきは獣のように鋭い。カミルは全身を皮鎧で覆い、手には一本の槍を携えていた。
最初から変わり種かよ。内心そう毒づく。
俺のような全身皮鎧で右腕だけ金属鎧をはめるのはアルベルトスタイルと呼ばれ、今の騎士たちの標準だ。なんたって”剣聖”アルベルトが確立したスタイル。金属は黒魔法の発動を阻害する。だから左手は魔法を扱えるように金属鎧で覆わない。
魔法も剣もどちらも扱える汎用性の高さと隙の無さ、加えてその姿だけからは何をしてくるのか分からない。間違いなく強い。
「カナタ・ローウェン。ミナト伯爵領からの初の入学者。地元じゃ負けなし。俺と当たったのが運のツキだな、カミル」
「笑わせんな。右腕の籠手が歪んでんぞ、カナタ・ローウェン。籠手の整備から勉強し直しだな」
「……だ、あ。……ちょうどいいハンデってことよ」
そこまで会話を交わすと、互いに所定の位置で構えた。距離は約十五メートル。剣も魔法もどちらが有利とも言えない、絶妙な距離だ。
体に魔力を循環させる。神経の伝達速度が高ぶり、ざわついていた周囲の音が遠のいて、世界がゆっくりに見え始める。
いつも通りやるだけだ。初手は左手で出の早い風属性魔法で牽制し、距離を取る。それから本命の火属性魔法をぶつけて勝ちだ。もし距離を詰められても、剣技なら俺が上のはず。
「はじめっ!」
審判の合図が、やけに遠くから聞こえた。俺は即座に風の魔法陣を左手から放った。魔法円、魔法印、魔法式を構成する。霊子が集まり、魔法を形成し始める。
――その瞬間。
「はやっ!」
空気を切り裂く甲高い音が、俺の耳に届く。魔法陣の中央、風を表す魔法印から槍の穂先が飛び出してきた。この距離を、一瞬で!? どうやって!? 身体強化か? だとしても、地元じゃ誰もこの距離は詰められなかった。
避ける。右か、左か。いや、受ける。剣で、金属鎧で? ダメだ。籠手、歪んでいる。
逡巡。そして、もう全ての選択肢は失っていた。
俺は咄嗟に身を捩って、それを寸でのところで避ける。槍先が右胸の皮鎧を掠め、焦げ付くような摩擦熱。砕けた魔法陣は霧散し始めていて、魔法痕だけが白く残る。
「バカがよ」
カミルの呟きが、やけにはっきりと聞こえた。
まずい。体勢を立て直さなければ。咄嗟に剣を突き出そうとするも、避けたせいで右腕が後ろに流れ、剣を振るうことができない。がら空きになった胴体。そこに、カミルの繰り出した蹴りが左脇腹に食い込んだ。
「ぐっ……!」
鎧の上からでも、内臓にまで伝わる鈍い衝撃。息が詰まり、視界が白く染まる。俺は成す術なく、砂の上に転がった。
体勢を、整えなければ。そう思ったときにはもう、冷たい金属の感触が俺の喉元にあった。カミルの槍先だった。
負けか? 俺が?
信じられなかった。俺が、負けた? こんなにあっさり? 初撃の槍は剣で払うべきだったのか? いや、あの速度では間に合わなかった。じゃあ、金属鎧で槍を受けるべきだった? そもそも地元じゃ、俺の魔法発動より早く距離を詰められるやつなんていなかった。そんなことをされるなんて、考えたこともなかった。
「早く降参しろよ、カナタ」
「……く、くそ……俺は、ミナト伯爵領じゃ……」
そこまで言うと、言葉の代わりにカミルは俺の喉を軽く突いて、薄皮一枚を裂いた。首筋に生温かい血が伝う。
冷たく鋭い眼光が、俺を貫く。
「ま、参り、ました……」
絞り出したその声は震えていた。審判役の先生が淡々とした声で告げた。
「勝者、カミル・イェニーク!」
周囲の観客は、俺たちの試合など初めからなかったかのように、隣で行われている激しい試合に視線を送っている。このあっけない決着は、誰の心にも留まらなかった。
「お前、弱いね」
カミルは槍先を上げると、付いた俺の血を指で無造作に拭う。もう俺の方を見ていなかった。そして、こともなげに続けた。
「ミナト伯爵領ってあれだろ? まともな騎士が一人もいない。平和ボケの。お前はカスの地元の期待の星かもしれないが、とっととここを辞めた方がお前のためだぜ。そもそも魔法陣を顔の前に展開するとかセンスなさすぎ。相手が隠れて見えなくなるだろ。反応も遅いし、蹴りを受けるって段階で身体強化もしねえし。ここは聖騎士養成学院だぜ? 並みの騎士以下だよ、お前」
それだけ言うと、カミルは去っていった。その背中が、やけに大きく見えた。
奴の言うことは、全て当たっていた。だが、今まで考えてみたこともなかった。
そうだ、地元ではみんな、顔の前に魔法陣を展開して、術式に問題がないかを確認してから発動していた。それが俺の行っていた騎士学校じゃ当たり前だった。俺がいつものやり方で相手を倒すたびに、親父は、クラスメイトは、「さすがだ」と手放しで褒めてくれた。俺の魔法発動は誰よりも早かった。あの時、誰も俺に「センスない」なんて言わなかった。
唇を噛む。血の味がした。
たしかに身体強化をしていれば、ただ蹴りを受けるよりもマシだったはずだ。なぜ、咄嗟にそれができなかった?
弱い? 俺が? あの故郷で、誰よりも強かった俺が?
違う。俺は強かったんじゃない。周りが、もっと弱かっただけだ。俺は、ただの井の中の蛙だったんだ。
父さん、母さん、伯爵……。みんなの俺に期待している顔が浮かんで、消えた。
喉の奥から、熱い何かがこみ上げてくる。
「……く、くそ……」
俺は砂を強く掴み、そう吐き捨てた。握りしめた砂は、指の隙間から、あっけなくこぼれ落ちていった。
その時、ふと視界の隅を、一人の少女が通り過ぎていくのが見えた。長い金髪を揺らめかせて、風が吹けばそのまま飛んでしまいそうな彼女が、勝者の控室へと向かっている。
勝ったというのに、その人形のような顔に喜びはなかった。むしろ困ったような、落胆しているような。俺は一層唇を噛んで、深くうつむいた。
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