◆ episode11.

クラブを出ると、

夜は思ったより冷えていた。


音が、

急に遠くなる。


さっきまで身体の奥を叩いていたベースが、

ドア一枚で別の世界のものになる。


俺は歩き出す。

誰にも声をかけず、

誰の背中も追わず。


足音だけが、

アスファルトに乾いて響く。


達成感もない。

後悔もない。


ただ、

何かが抜け落ちた感覚。


それが、

あとからじわじわ来る。


まつりの顔を思い出そうとするが、

不思議と輪郭がぼやけている。


代わりに浮かぶのは、

九条の目。


あの一瞬で、

すべてを理解して、

すべてを奪っていく視線。


(……あいつは、

 やっぱり火だな)


自分にはないもの。

最初から持っていなかったもの。


それを

羨ましいとは思わなかった。


ただ、

役割が違うと

はっきりわかっただけだ。


信号待ち。

赤。


立ち止まると、

胸の奥が少し痛んだ。


理由はわかっている。


もう、

呼ばれない。


毎日、

まつりの“今日”を確認する必要はない。


「今日はどう?」

「無理そう?」

「変わってない?」


そういう言葉を

明日から使う相手が、

もういない。


それが、

初めての喪失だった。


恋じゃない。

奪われたわけでもない。


役割が消えた喪失。


世界から、

静かに名前を消された感じ。


信号が青に変わる。


歩き出す。


歩幅が、

ほんの少しだけ乱れる。


(……俺、

 ちゃんとやりきったよな)


誰にともなく、

確認する。


答えは返らない。


それでも、

胸の奥で何かが

ゆっくりと沈んでいく。


写真を撮るときと同じだ。


シャッターを切ったあと、

もう触れられない時間が

確定する瞬間。


あれに、

よく似ている。


空を見上げる。


青は、

もう夜の色だった。


(……消えたわけじゃない)


(世界に溶けただけだ)


自分が

そうなる番だった。


ポケットに手を入れる。

冷たい。


ここから先は、

観測者に戻る。


触れない。

近づかない。


でも、

忘れない。


それが、

自分の仕事だ。


角を曲がると、

クラブの光が完全に見えなくなる。


その瞬間、

胸の奥が

ほんの少しだけ空になる。


——これが、喪失か。


そう名付けて、

そのまま夜に溶けた。



家に着くまで、ずっと音が遠かった。

クラブのベースが耳の奥に残って、

街の信号の電子音だけがやけに鮮明だった。


鍵を回して、ドアを閉める。

部屋は暗くて、静かで、ちゃんと現実だった。


ジャケットを椅子に掛けて、靴を脱ぐ。

指先がまだ冷たい。

ポケットの中の硬貨が、知らない国の通貨みたいに重い。


水を飲んで、息を整える。

整えたところで、何かが戻ってくるわけじゃない。


——終わった。


そう思うのに、

胸の奥に小さな引っかかりが残る。

達成感に似ている。

でもそれだけじゃない。


役目を果たした感覚。

正しく運んだ感覚。

正しい場所に置いて、手を離した感覚。


その“正しさ”が、なぜか少しだけ切ない。


必要だった時間が、必要なくなる。

それが喪失の正体だと、ようやくわかった。


机に座って、ノートPCを開く。

光が顔を照らす。

画面の白は、夜の闇より無機質で、正直だ。


フォルダを開く。

今日の夜のデータ。

音の粒。ネオンの粒。

そして、あの瞬間の粒。


シャッターを切ったのは俺なのに、

写っているのは俺の手から離れていくものだった。


笑ってしまう。

写真って、いつもそうだ。


残すために撮ってるのに、

撮った瞬間から、もう届かない。


カーソルが止まる。


「海_放課後」


開く。


空白。


読み込みじゃない。

ただの空白。

あの日は今も、作品になっていない。


——それでいい。


空白を見て、胸の奥が少し軽くなる。

喪失は、穴じゃなくて、余白なんだと思えた。


視線をずらす。


「NY」


ずっと前に作ったフォルダがある。

入っているものは、まだ何もない。

こっちは“撮らなかった”空白じゃなくて、

“まだ撮ってない”空白だった。


今日、初めて、

その違いが身体でわかった。


俺は、いつも誰かの輪郭を固定してきた。

消えない位置に置いてきた。

自分の人生の手前で。


でも、もう終わった。

あの青は、火に近づいた。

俺の役割は、完了した。


だったら次は、俺の番だ。


スマホを手に取る。

画面が冷たい。

航空券の検索画面を開く。

指が迷わないのが、自分らしくて少し笑える。


ロマンは要らない。

決めるときはいつも、こんなふうに淡々と決まる。

“確定”のボタンだけが、やけに偉そうだ。


日付を選ぶ。

片道。

戻りは入れない。


指を置いて、押す。


確定。


その瞬間、

胸の奥の切なさが、

少しだけ別の形に変わる。


逃げるんじゃない。

次へ行く。


それだけだ。


窓の外は、まだ夜の青。

でももう、さっきのクラブの青じゃない。

新しい空白の青だ。


カメラを手に取る。

ストラップの感触が、いつも通りで安心する。


画面の中の二人は、もう勝手に燃える。

俺はもう、そこに触れない。


静かに、ただ一言だけ、胸の中で確認する。


(俺は、ここまで)


そして、次の行き先を、声に出さずに決める。


ニューヨークへ行く、と。




──第二部 第五章:「海の幽霊」終

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『光の底』<2部>第五章 朔Side:海の幽霊 @manitoru

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