おいでませ、ルクセンブルク大公国

@Drinking_Novichok

第1話 ルクセンブルクは道路ではない、国だ

一九四〇年五月十日、午前五時三十五分。 アルデンヌの森は、まだ夜明け前の冷たい霧に包まれていた。その静寂を引き裂いたのは、鳥のさえずりではなく、履帯が大地を噛み砕く重低音と、ディーゼルエンジンの咆哮であった。


 


ハインツ・グデーリアン率いる第十九装甲軍団。その先鋒を務める第一装甲師団の大尉、ヴェルナー・フォン・クライストは、III号戦車のキューポラから身を乗り出し、双眼鏡越しに国境を見つめていた。 視界の先にあるのは、ルクセンブルク大公国。 ドイツ第三帝国にとって、この国は国家として認識されてすらいない。フランスへ至るためのアウトバーン。それが彼らの認識だった。


 


「大尉、シュスター線(ルクセンブルクの国境防衛線)が見えます」


 


ヘッドセットから部下の報告が入る。ヴェルナーは鼻を鳴らした。シュスター線といっても、道路に鉄の扉を設け、いくつかのトーチカを配置した程度のものだ。中立国の悲しい抵抗。戦車はおろか、工兵の爆薬一つで消し飛ぶ障害物に過ぎない。


 


「抵抗はあるか?」


「いえ、歩哨の姿すら見えません。おそらく、我々の進軍音を聞いて逃げ出したのでしょう」


「賢明な判断だ」


 


ヴェルナーは冷笑した。ルクセンブルクの兵力は、義勇軍を含めても数百名程度と聞いている。対してこちらは数万の装甲部隊。象が蟻を殺したければ、わざわざ直接踏み潰す必要などない。蟻は象の足音を聞いただけで死ぬのだから。


 


「全車、前進速度を維持。予定通り、正午までにはベルギー国境を抜けるぞ」


 


III号戦車の主砲がわずかに仰角を下げ、国境のゲートへと狙いを定める。 それは戦争ですらなかった。ただの行軍。ただの移動。 だが、ヴェルナーは知らなかったのだ。 彼らが道路だと思っていたその場所が、欧州最強の軍隊が待ち構える処刑場であることを。


 


モーゼル川の支流、ザウアー川にかかる橋の向こう。 ルクセンブルク側の国境検問所は、不気味なほどに静まり返っていた。


 


霧が晴れ始め、朝日が川面を照らす。ドイツ軍の先頭を行く偵察用装甲車が、バリケードの前で停止した。工兵が装甲車から飛び降り、閉ざされた鉄の門扉に爆薬を仕掛けようとする。


 


その時だった。


 


『止まれ』


 


拡声器を通したわけでもない。だが、その声は戦車のアイドリング音をかき消し、あたかも大気そのものが震えたかのように、ドイツ兵たちの鼓膜を叩いた。


 


工兵たちが動きを止める。 鉄格子の向こう。霧の奥から、一人の男が歩み出てきた。


 


それは奇妙な出で立ちだった。 ルクセンブルク軍のフィールドグレイの制服。だが、その肩幅は常人の倍近くあり、軍服の生地の下には、人間離れした隆起を見せる筋肉が鎧のように詰まっていることが見て取れた。身長は優に二メートルを超えているだろう。 男はヘルメットを目深に被り、右手には何かを引きずっていた。 丸太のような太さの銃身。機関部だけで人間の胴体ほどもある巨大な鉄塊。それは、本来ならば車載用の重機関銃であった。それを彼は、まるで小枝か散歩の杖のように、片手で引きずっているのだ。


 


「なんだ、あれは……?」


 


ヴェルナーは双眼鏡のピントを合わせた。 男の階級章は大尉。胸には「大公国警備隊Garde de la Grande-Duchesse」の記章。 たった一人。 たった一人で、ドイツ装甲師団の前に立ちはだかっている。


 


「警告する」


 


男の声が再び響いた。腹の底に響く重低音。


 


「ここはルクセンブルク大公国である。貴官らの武装通行は許可されていない。直ちに回れ右をして、貴国へ帰還せよ」


 


正気か? ヴェルナーは呆れを通り越して感心した。 数千の鉄の軍団を前にして、帰れと言ったのか。


 


「排除しろ」


 


ヴェルナーは短く命じた。 先頭の偵察装甲車に備え付けられた7.92mm機関銃が火を噴く。 乾いた発射音と共に、数十発の弾丸がその巨漢へと吸い込まれた。


 


間違いなく命中した。距離は五十メートルもない。肉片が飛び散り、男は穴だらけになって倒れるはずだった。


 


キン、キン、カン、キィン!


 


甲高い音が響き、火花が散った。 ヴェルナーは我が目を疑った。 弾丸は男の制服を破り、皮膚に当たった瞬間に――弾かれたのだ。 まるで戦車の装甲板に小石を投げつけたかのように。鉛の弾丸がひしゃげ、地面に転がる。 男は一歩も退かない。出血もない。破れた制服の隙間から見えたのは、鋼鉄の如き光沢を放つ、傷一つない褐色の筋肉だった。


 


「……は?」


 


通信手の間の抜けた声が漏れる。 男――ルクセンブルク陸軍大隊所属、ジャン・メイヤー大尉は、鬱陶しそうに首を振ると、ゆっくりと右腕を持ち上げた。 その手には、全長二メートル近い対戦車用重機関銃が握られている。三脚も付いていない、ただの小銃のように彼はそれを構えた。


 


「交渉決裂と見なす」


 


ジャンの指が引き金を絞る。


ドォォォォォォン!!


それは銃声ではなかった。爆音だった。 口径20mmを超える徹甲焼夷弾が、目にも止まらぬ連射速度で吐き出される。 先頭にいた偵察装甲車が、紙細工のように弾け飛んだ。 装甲板が飴細工のように引き裂かれ、内部の弾薬に引火し、瞬時に火球へと変わる。


 


「な……ッ!?」


 


「次」


 


ジャンは無造作に銃口をスライドさせた。 後続のトラック。工兵たち。 暴力的なまでの質量を持った弾丸の嵐が、ドイツ軍の先鋒を薙ぎ払う。人間が撃たれれば、穴が開くのではない。上半身が消し飛ぶのだ。トラックのエンジンブロックは粉砕され、車軸ごとひっくり返る。


 


「敵襲! 敵襲! 歩兵ではない、対戦車砲だ! いや、なんだあれは!?」


 


無線がパニックに陥る。 ヴェルナーは叫んだ。


 


「狼狽えるな! たかが一人だ! 戦車隊、前へ! あの化け物を吹き飛ばせ!」


 


II号戦車とIII号戦車が、燃え盛る残骸を押しのけて前進する。 37mm対戦車砲と、20mm機関砲がジャンに狙いを定めた。 人間がどれほど頑丈であろうと、戦車の主砲には耐えられない。それが物理法則だ。そうであるはずだ。


 


「撃てッ!」


 


至近距離からの砲撃。 轟音と共に、ジャンが立っていた場所が爆煙に包まれた。土砂が吹き飛び、地面が大きく抉れる。 直撃だ。 人間の体など、霧散して跡形も残っていないだろう。


 


「……ふん、手間を取らせる」


 


ヴェルナーが安堵の息を吐こうとした瞬間、爆煙が風に流れた。


 


そこに、影があった。 煤にまみれ、制服はボロボロになっていた。だが、その男は立っていた。 両腕をクロスさせ、顔面を庇うような姿勢。 腕の筋肉が赤熱し、湯気を立てている。 榴弾の直撃。爆圧と破片の嵐。それを、彼はその身一つで受け止めたのだ。


 


「馬鹿な……」


 


ヴェルナーの背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。 あれは人間などではない。人の形をした要塞だ。


 


ジャンは腕を下ろし、首をコキリと鳴らした。


 


「我々の皮膚は、貴様らの戦車よりも硬い。我々の骨は、貴様らの信念よりも強固だ」


 


ジャンが地面を蹴った。 その瞬間、地面が爆発したかのように陥没した。 巨体が、砲弾のような速度で突っ込んでくる。 速い。あまりにも速い。その巨体で、戦車の速度を凌駕している。


 


「撃て! 近づけるな!」


 


機銃が唸るが、すべて弾かれる。ジャンは瞬く間に先頭のII号戦車に肉薄した。 彼は右手に持っていた重機関銃を背負い、素手で戦車の前面装甲を掴んだ。 指が、 人間の指が、鋼鉄の装甲板にめり込んだ。


 


「ウオオオオオオオオオッ!!」


 


裂帛の気合と共に、ジャンが腕を振り抜く。 金属の悲鳴のような轟音が響き渡った。 溶接された鋼鉄の板が、まるで濡れた段ボールのように引き剥がされたのだ。 装甲の内部、運転席にいたドイツ兵の、恐怖に引きつった顔が露わになる。


 


「邪魔だ」


 


ジャンはその開いた穴に拳を突き入れ――戦車ごと兵士を殴り飛ばした。 十トン近い鉄の塊が、横殴りにされた玩具のように宙を舞い、横転してキャタピラを空転させる。


 


戦場が静まり返った。 ドイツ兵たちは、誰一人として言葉を発することができなかった。 彼らの理解の範疇を超えていた。 戦車が、人間に殴られてひっくり返ったのだ。


 


「総員、構え」


 


ジャンの背後、霧の奥から、無数の足音が響いてきた。 現れたのは、ジャンと同じような巨躯を誇る兵士たち。 その数、およそ四百名。 全員が、戦車砲や対空砲をもぎ取ったような重火器を抱えている。あるいは、身の丈ほどの巨大な戦斧や、パイルバンカーのような異形の武装を手にした者もいる。


 


ルクセンブルク陸軍、第一大隊。 総員四百余名。 だが、その戦力評価は1個師団などという生易しいものではないことを、ヴェルナーは悟った。


 


彼ら一人一人が、歩く重戦車なのだ。 四百輌の重戦車が、歩兵を上回る機動力と隠密性を持って襲い掛かってくるに等しい。


 


先頭に立つジャンが、口の端を歪めて笑った。それは、獲物を前にした獅子の笑みだった。


 


「ルクセンブルクへようこそ、ナチスの諸君。ここが貴様らの終着点だ。通行料は、その命で払ってもらおう」


 



 


「後退! 全車後退せよ!!」


 


ヴェルナーは無線機に向かって絶叫した。プライドも軍規も関係ない。これは戦闘ではない、虐殺だ。 だが、後退しようにも、一本道の後方は後続部隊で詰まっている。


 


「逃がすか」


 


ルクセンブルク兵の一人が、巨大な筒状の兵器を構えた。 迫撃砲? 否、それは旧式の列車砲の砲身を切り詰めて携帯用に改造した代物だった。 ドォン! という腹に響く発射音。 放物線を描いて飛来した砲弾が、ドイツ軍の隊列の中央に着弾する。 爆発の規模が違った。 地面が揺れ、数台の戦車とトラックがまとめて空中に吹き飛ばされる。


 


「散開しろ! 森へ逃げろ!」


 


もはや指揮系統は崩壊していた。 パニックに陥った歩兵たちが、蜘蛛の子を散らすように森へと逃げ込む。 だが、そこは彼らの庭だ。


 


「狩りの時間だ」


 


ルクセンブルク兵たちは、重装備を身につけているとは思えない速度で森へと飛び込んだ。 そこから先は、惨劇と呼ぶほかなかった。


 


茂みの奥から伸びた腕が、ドイツ兵の首を掴み、片手でへし折る。 木々の間を縫って飛来する20mm弾が、隠れた兵士を木ごと粉砕する。 III号戦車が必死に応戦するが、彼らは木々を足場にして立体的に機動し、死角から回り込む。 一人の兵士が戦車の上に飛び乗り、ハッチを無理やりこじ開け、中に手榴弾を放り込む。それも、通常の手榴弾ではない。対戦車地雷を改造したような、巨大な爆発物を。


 


内部からの爆発で砲塔が吹き飛ぶ。


 


ヴェルナーの乗る戦車もまた、包囲されつつあった。 彼は震える手で拳銃を抜き、ハッチを閉めようとした。 その時、ガンッ! という衝撃と共に、ハッチが停止した。 隙間から、太い指が見える。 ハッチが、力任せにねじ曲げられていく。 ミシミシと音を立てて金属が悲鳴を上げ、ヒンジが弾け飛んだ。 開かれた視界の先に、あの男――ジャン大尉の顔があった。


 


「ドイツまで飛ばしてやろうか?」


 


ジャンはそう言うと、ヴェルナーの襟首を掴み、キューポラから引きずり出した。 まるで猫の子を扱うような手つき。 ヴェルナーは宙に浮き、そして地面に叩きつけられた。 受け身を取る暇もなかった。激痛が走り、肺から空気が強制的に排出される。


 


仰向けに倒れたヴェルナーの視界を、ジャンの巨大な軍靴が覆った。 踏み潰される。 そう直感して目を瞑ったが、衝撃は来なかった。


 


「捕虜第一号だ。大事に縛り上げておけ」


 


ジャンの指示で、部下が太いワイヤーを持って近づいてくる。 ヴェルナーは霞む意識の中で、周囲の光景を見た。


 


燃え上がるドイツ戦車の残骸。 ひしゃげた装甲車。 そして、その炎の中を悠然と歩くルクセンブルクの兵士たち。 彼らは榴弾砲の弾幕の中を平然と進み、機関銃の雨を浴びながら談笑し、素手で軽戦車を引き裂いていた。


 


ルクセンブルクは「道路」などではなかった。 そこは、小国の皮を被った魔境。 欧州の地図に空いた、底知れぬ魔窟。


 


「……本国に……伝令を……」


 


ヴェルナーは血の泡を吹きながら呟いた。


 


「ここは……通れない……」


 



 


ルクセンブルク市、大公宮殿地下、作戦司令室。


 


豪奢なシャンデリアの下、巨大な作戦卓を囲む数名の将校たちがいた。 彼らもまた、前線の兵士たちと同様、あるいはそれ以上の威圧感を放つ巨躯の持ち主たちである。 だが、その中央に座る人物だけは違った。 シャルロット大公。 優雅なドレスに身を包んだ彼女は、華奢で、可憐な女性だった。 しかし、彼女の周囲に侍る鋼鉄の巨人たちは、誰よりも彼女に対して深い崇敬と忠誠を示し、直立不動の姿勢を崩さない。


 


「国境警備隊、ジャン大尉より入電」


 


通信士(彼もまた、受話器を握りつぶしそうな巨漢だった)が報告する。


 


「ドイツ軍先遣部隊、壊滅。現在、残存兵力を掃討中。敵の主力は依然として進軍の構えを見せていますが、ザウアー川ラインにて完全封鎖が可能とのこと」


 


シャルロットは静かに紅茶のカップを置いた。 カチャリ、という音が、静寂な司令室に響く。


 


「ご苦労様。ジャンには、あまり楽しみすぎないようにと伝えて」


 


彼女の声は鈴を転がすように美しかったが、その瞳には冷徹な光が宿っていた。


 


「ドイツは我が国を侮りすぎました。小国だからといって、無力であるとは限らない。小さき宝石ほど、硬度は高いものよ」


 


彼女の背後に控えていた参謀総長が、低い声で尋ねる。


「殿下、フランスとイギリスへの連絡は?」


 


「必要ありません」


シャルロットは微笑んだ。


「彼らが助けに来る頃には、ドイツ軍はザウアー川の向こうまで押し返されているでしょうから。それに――」


 


彼女は立ち上がり、壁にかけられたルクセンブルクの紋章――赤い獅子の旗を見上げた。


 


「私の可愛い子供たちは、まだ遊び足りないでしょう? 久しぶりの運動会だもの。存分に暴れさせてあげなさい」


 


司令室に、低く、地響きのような笑い声が満ちた。 それは、これから始まる更なる殺戮を予感させる、猛獣たちの唸り声だった。


 


ドイツ軍の侵攻計画「黄作戦Fall Gelb」は、開始からわずか数時間で最大の誤算に直面していた。 彼らが踏み込んだのは、アウトバーンではなく、眠れるドラゴンの巣穴だったのである。


 


「さて、次はグデーリアン将軍のお出ましかしら。彼の『電撃戦Blitzkrieg』が、我が国の『肉体戦Körperkrieg』にどこまで通用するか、見物ね」


 


ルクセンブルク防衛戦。 後に歴史家たちが「公国の奇跡」あるいは「ザウアー川の悪夢」と呼ぶことになる戦いは、こうして幕を開けた。 人類史における兵器の常識が、筋肉と質量によって覆される戦いが。


 

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