第1話:疑惑の影
第1話:疑惑の影
「田中くん、この書類に目を通したか?」
課長の森山が、重たい革製のファイルを机の上に置く。金属のファイルバインダーが机に触れる音が、静まり返ったオフィスに響いた。
田中は目を細め、書類の端に触れた。手に伝わる紙の質感は普通だが、何かが引っかかる。香りは、インクの匂いとコピー用紙のほのかな化学臭が混ざるだけ。
「はい、見ました……でも、少し違和感があります」
森山が眉をひそめた。「違和感? 具体的には?」
田中は、指先で一枚の契約書を指した。「この土地の権利者の署名、印鑑の押し方が他と少し違う気がします。角度というか、微妙な歪みが……」
「印鑑の角度か。まさか……」
森山の声に、わずかな緊張が混ざる。オフィスの蛍光灯がチカチカと瞬き、冬の乾いた空気が田中の頬を刺すように冷たかった。
「いや、もちろん偶然かもしれません。ただ、契約金額が55億円を超える計画です。少しでも不安要素があれば、確認すべきだと」
田中は書類を持ち上げ、視線を落とす。文字の並びや印字の濃淡、紙の繊維のわずかな粗さ。全てが頭の中で積み重なり、直感がざわつく。
その時、電話が鳴った。受話器を取る森山。
「田中くん、契約相手の方から直接連絡があったそうだ。明日、都内の現地で会うとのことだ」
田中は、胸の奥が小さく締め付けられる感覚を覚えた。55億円という数字の重さが、ひときわ現実味を帯びて迫る。心臓の鼓動が一瞬早くなる。
翌日、東京の中心部。高層ビルの谷間に挟まれた小さな土地は、日光を受けてわずかに霜が光っていた。冬の空気は乾き、草の匂いも土の匂いもほとんどなく、冷たいコンクリートとアスファルトの匂いが漂う。
「こちらが、今回の土地所有者だそうです」
森山が田中に声をかける。眼前には、スーツに身を包んだ中年男性。表情は穏やかで、柔らかな微笑みを浮かべているが、目はどこか定まらない光をしていた。
田中は瞬時に違和感を感じた。体温や呼吸のリズム、歩くときの靴の音。すべてが微妙に不自然だ。男性が手を差し出して握手する。皮膚の感触は乾きすぎており、温もりがほとんどない。
「田中さん、初めまして。森山課長にはお世話になっています」
男性の声は滑らかで、アクセントもきれいだが、どこか計算された響きが混ざる。田中の直感が、脳裏で赤い警告灯のように点滅した。
「初めまして……ええ、こちらこそ」
田中は自然を装いながらも、目の端で男性の手元を観察する。印鑑証明や権利書が差し出された瞬間、紙の端に微妙なシワが寄っているのに気付く。指先で確認したわけではない、視覚だけで察知できる違和感。
「この契約書類、先に目を通していただけますか?」
田中は落ち着いた声で依頼する。手にした書類の厚み、紙の手触り、そしてインクの香り。すべてが微細な情報として、彼の神経を研ぎ澄ませる。
男性は穏やかに頷き、差し出された書類を受け取った。その瞬間、田中は印鑑の角度を再確認する。やはり、少しだけ、他の契約書とは違う。微妙すぎて、一般の人なら気付かない程度の違い。だが田中の中で、小さな赤い光が点滅したまま消えない。
「……これは、正規のものですね?」
田中は軽く口を挟む。相手は静かに笑った。
「ええ、すべて正規です。私たちも、慎重に手続きを進めていますから」
しかし田中の胸中はざわつく。55億円という額。万が一、ここに小さな偽装や意図的なズレがあった場合の破壊力。その恐怖と興奮が、冷たい空気の中で、まるで霧のように身体を包む。
森山が、微かに眉を寄せた。「田中くん、君の見立ては?」
田中は息を吸い込む。冬の空気が鼻腔を突き抜け、肺を満たす。冷たい空気とともに、理性と直感がぶつかり合う。心の奥で、ある声が囁いた。
「これは……何かがおかしい」
それは微かな違和感、微妙な紙の歪み、印鑑の角度、そして人の呼吸のリズム。
すべてがつながった瞬間、田中の直感は確信に変わった。
「課長……僕、確認したほうがいいと思います。これは……少なくとも、もう一度、慎重に調べるべき案件です」
森山は田中の眼差しをじっと見た。冬の光が二人の顔に反射する。彼の瞳の奥に、迷いと警戒、そして事件の影がわずかに映った。
「……わかった。君の言う通りに進めよう。だが、ここから先は慎重に。些細な判断ミスが、55億円という規模で跳ね返ってくる。絶対に、影に飲み込まれるな」
田中は深く頷いた。胸の奥に、冷たい緊張感と、まるで雪のように静かに降り積もる不安を感じながらも、直感に従う覚悟を決めた。
都内の冬の光景は、表面は平穏でも、土地の影には何か得体の知れないものが潜んでいる。田中はその影を、まだ見ぬ敵として、目を凝らして見つめていた。
そして、微かに雪のように、心の片隅に重く、暗い影が落ちていた。
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