信じる扉

奈良まさや

第1話

歌舞伎町の夕方は、夜より残酷だ。

ネオンが眠っているぶん、汚れだけが正直に見える。

「娘が……亡くなりまして」

そう言って入ってきた女は、清掃の仕事で荒れているはずの手を——なぜか、きれいに整えていた。



◆◆◆ 第一章 忘れられた封筒 ◆◆◆


12月の初旬。

歌舞伎町から少し外れた職安通りの雑居ビルは、昼も夜もくたびれていた。

三階の奥――非常階段の突き当たりに「片山調査事務所」の銀のプレートがぶら下がっている。

剥がれた文字、割れた蛍光灯。

それでも片山創(五十九歳)は、今日もこの空間を仕事場としていた。


ストーブは壊れたまま。

代わりに、卓上の小さな電気ポットがシュー、と湯気を吐いている。

片山はインスタントコーヒーに微量のウイスキーを垂らし、

薄い湯気を吸い込んだ。


そろそろ搾りかすみたいな人生を抜け出して、

ニュージーランドでラム肉でも焼いて暮らす。

二年か三年。

その先のことは考えていない。

探偵という仕事も、今年あたりで終わらせるつもりだった。


そんな折に、ノックがひとつ。


「……失礼します」


扉を開けた女は、細い体をさらに細く畳み込むように立っている。

白川宜子、四十八歳。

新宿区内の病院清掃の仕事で日々をつないでいるという。


「娘が……亡くなりまして」


片山は椅子から腰を上げなかった。

ただ顎を引いて続きを促した。


「歌舞伎町のマンションの六階から……落ちたんです。

自分の部屋のベランダから。

警察は……自殺と」


自殺。

片山は、心のどこも動かないまま聞く。

この街では、死は驚きではない。


だが、母親の声が震える。


「娘は……白川夕夏、二十四歳。

東京大学の薬学部で、今年が六年生なんです。

国試のことで毎日頑張ってて……。

お金がなくて、キャバクラで……学費を払って……」


薬学部の六年。

国試直前。

精神の摩耗は容易にイメージできた。


「……娘さん、一人暮らし?」


「はい。歌舞伎町の六階のワンルームで。

築45年で安いから……。

私には何も援助できなくて……

だから娘、自分で学費ローンを借りて……“いい制度がある”って言ってたんです……

彼氏の優弥くんに勧められたって……」


優弥。

交際五年目だという。


宜子はバッグから封筒を出した。手は細く、清掃の仕事で荒れているはずなのに、なぜかキレイに整っていた。


「これ……娘の部屋に残っていた書類なんです」


片山は受け取り、ゆっくり開いた。


-----


《光翼の会 進学支援プログラム》と印字された契約書。


貸付:月額 6万円

実質支給:5万4千円(6千円は「信徒保護制度掛金」へ)

内訳:

・教団貸付:5万円(うち5千円を「信徒保護制度掛金」へ)

・婚約者貸付:1万円(うち1千円を同様)


## 条件:


卒業後、毎月1万円の返済。(30年間猶予あり)

不可抗力による死亡時、返済義務は免除。

付帯:

団体保険(受取人:光翼の会)


片山の指が止まった。


学費支援と称し、

月々の掛金の一部が団体がよくわからない掛け金に回っている。

事故死のみ、保険金が下りる。

自殺では下りない。


そして今年――

加入六年目の”ピーク保障額”。

事故死なら二千万。


「娘は……こんな宗教のこと、私には一度も……

私も、知人に誘われて月に一度くらい集まりに顔を出してるんですけど、

こんな制度があるなんて……」


宜子は言葉を飲み込み、

代わりに別の紙を差し出す。


《医療保障・災害死亡特約》

夕夏が大学入学時、宜子が念のためにかけた小額の医療保険の写しだった。


事故死なら百万円が下りる。

それで葬式代を埋めたい――

母の望みは、それだけだった。


「お願いです。

警察は自殺と決めつけて……

でも、あの子は……夕飯の材料を買ってきて、冷蔵庫に入れて……

国試の問題集広げたまま……

そんな子が、あんな……」


片山は黙って聞いた。


宜子は続ける。


「……事故なら、医療保険も下りるし……

娘の”学資ローン”の返済もなくなるし……

私、これ以上……借金できなくて……」


つまり依頼内容は――

「自殺を事故にしてほしい」。


片山は料金表を机に置いた。

数字を見た瞬間、母親の顔が絶望に沈む。


「……無理です。

こんな額……とても……。

すみません……すみません……」


宜子は深く頭を下げ、

よろけながら事務所を出ていった。


扉が閉まる。

電気ポットの沸騰音だけが部屋に残る。


片山は机を見る。


封筒がひとつ残されていた。

母の忘れ物だ。


契約書、保険証券、教義案内。

そして――

《事故死は魂の解放》と大きく書かれた教団のパンフレット。


夕夏の名前が、信徒番号の横に印字されている。


片山は低く唸った。


六階のベランダ。

二十四歳の薬学生。

キャバクラで学費を払う生活。

大学1年の時から交際中の彼氏が勧めた”五年目の支援制度”。

宗教団体が受取人の生命保険。

事故死なら二千万。

自殺ならゼロ。


合理的すぎる線が一本、頭の奥で光った。


片山は古い引き出しを開け、奥から色褪せた新聞記事の切り抜きを取り出した。


《宗教団体施設で女性焼死 事故か自殺か》


十五年前の記事。

写真に写る女性の顔を、片山は今も覚えている。


娘だった。

片山美咲、二十八歳。


当時、片山は現役の刑事だった。

娘は「心の安らぎを求めて」ある宗教団体に入信していた。

そして、施設の火災で死んだ。


警察の結論は「事故」。

だが、片山は違うと確信していた。


娘の通帳から消えた三百万円。

施設に渡したという寄付金。

火災の前日に契約された生命保険。

受取人は団体。


だが、証拠は何もなかった。

火は全てを焼いた。


片山は刑事を辞めた。

探偵になった。


同じ匂いを嗅ぎ分けるために。


「六階のベランダ、ね」


呟いて、階段を降りる。


夜風が吹きつける歌舞伎町の街は、

ネオンよりも嘘の方がよく光る。


彼の足取りは、

誰かが仕掛けた仕組みの匂いへ向かっていた。


十五年前、守れなかった娘の代わりに。

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