ノワレ
漣凛
ブランコ
その曲は、完成してはならなかった。
完成した瞬間、歴史が変わってしまうから。
朝の光が、マンションのベランダに薄く降りていた。
遠くから、小鳥の鳴き声が風に乗って届く。軽くて、あたたかくて、どこか頼りない音。それに混じって、どこかの部屋からピアノの音が流れてくる。音階はゆっくりで、完璧じゃない。たまに迷うみたいに、指が止まる。その不確かさが、朝の空気に溶けていった。
ベランダの手すりに指をかけて、少女は外を眺めていた。
整然と並ぶ建物、洗濯物が揺れる影、空の青さに浮かぶ白い雲。どれも現実なのに、少しだけ遠い。ガラス越しの世界みたいだった。
風が髪を揺らす。
ピアノの音が、また一音、空に落ちる。
彼女は小さく息を吸って、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……お姫様みたい」
その言葉は、願いでも誇りでもなく、ただの独り言だった。
叶わないことを最初から知っている人の、静かな確認みたいに。
彼女は手すりに腰掛けた。
冷たい金属が、太ももの裏にひっそりと触れる。足は宙に浮き、ぶらぶらと頼りなく揺れた。
「いーっちばん最後の日にはね——」
独り言は、さっきより少しだけ明るい声だった。
本で読んだセリフ。終わりが迫る世界で、小さなお姫様が人生でやってみたかったことを全部果たす!みたいなお話。
大好きだった本。
「お城のてっぺんにブランコを作りたいんだ、」
空に向かって、想像だけが弧を描く。
雲よりも高く、街よりも遠く。
誰にも見られず、誰にも届かない場所で。
足先が、風を切った。
そのときだった。
わずかに体が傾く。
ほんの一瞬、世界の重さが反転する。
「あ、っ」
短い声が、空気にほどける。
指が手すりを探して、何も掴めない。
ピアノの音が、途中で途切れた。
小鳥の鳴き声が、やけに遠くなる。
彼女の身体は、音もなく前へ、下へと引かれていく。
空だけが、静かに広がっていた。
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