第二十六話「老教授の肖像」



 2027年1月22日、夕刻――


 アメリカ合衆国、ロードアイランド州。

 ミスカトニック大学・プロヴィデンス分校。


 キャンパスの敷石を、ひとりの老紳士がゆっくり歩いていた。


 厚手の外套に山羊革の手袋。

 わずかに乱れた白髪さえも、知性を帯びて見える。


 名誉教授――九重誠一。


 彼の名を冠した論文や翻訳書は数知れず。

 神秘と知識の探究に生涯を捧げた異才であった。


 すれ違う学生たちは自然と距離をとり、恭しく会釈をする。

 その多忙さを思い、言葉を交わす者はいなかった。



 その夜――


 キャンパスの端に、重苦しい鉄扉に閉ざされた建物がある。


 一般の立ち入りを禁じられた、制限図書保管庫だ。


「これで最後の夜か……さすがに、感慨深い」


 九重は呟き、慣れた手つきで鉄扉に鍵を差し込む。

 金属音とともに扉が開き、石造りの階段が闇へと続いた。


 地下に降り立つと、乾いた空気と鉄錆の匂いが迎える。

 並ぶ書架。その中央に――異様な気配を放つ一冊が鎮座していた。


 《アル・アジフ》


 四十年前、九重率いる調査隊がイベリア半島の墓地で発掘した。


 世紀の発見に大学は沸いた。

 だが書に触れた者は悪夢にうなされ、読み解いた者は正気を失った。


 ――九重を除いて。


 以来アル・アジフは、彼だけの愛読書となった。


 九重は知らない。

 その書を発見した瞬間、最強の能力であり最悪の呪を背負ったことを。


「さて、旧き友よ……今宵は別れを告げに来た」


 書を手元へ引き寄せる指先が、微かに震える。


「腫瘍というやつに身体を蝕まれていてね。明日からは病院の枷に繋がれ、静かに最期を待てというわけだ」




▼次回「《アル・アジフ》が開いた門」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る