第9話 闇の呼び声、来たる頂点
陽光が、瞼の隙間から差し込む。
「ふわぁ……もう朝かよ……」
間の抜けた欠伸を漏らし、俺様はゆっくりと身体を起こす。
首をコキコキと鳴らし、そのまま御神木の枝から地面へと飛び降りた。
振り返る。
しかし社は、静まり返っていた。
人の気配は無く、聞こえるのは風に揺れる葉擦れの音だけ。
俺様は息を吐き、石階段を下りていく。
――あの男との激闘から、早くも一週間が経とうとしていた。
あれ以降、化け物共は姿を消し、村には束の間の平穏が戻っている。
だが、全てが元に戻ったわけじゃねぇ。
ノインは、目の前でカンニヴァルが消滅したショックで、感情を失った。
今は村長が面倒を見ている。
医者の話では、回復には相当な時間が必要らしい。
……最悪の場合、一生戻らない可能性もある、と。
なんで村の連中がカンニヴァルを知ってるかだって?
どうやら、一部の奴らには前から勘付かれていたらしい。
「チッ……」
舌打ちが、朝の空気に響く。
あの日、遠くで見ていた村の者の話によると、ボロボロになりながらも、カンニヴァルは必死にノインを守っていたらしい。
だが、最後には力尽きてしまい……次に見た時は、俺様とノイン以外の姿は無かったようだ。
ったく、あの野郎……いつも、すっとぼけた顔でヘラヘラしてやがったくせに慣れねぇ事しやがって。
胸の奥が嫌に重くなる。
あの時、俺様がもっと早く目を覚ましていれば……俺様がもっと強ければ、二人は――。
考えたところで、今ある現実が変わる訳じゃねぇ。
んな事は解ってる。
それでも――。
気がつけば俺様は、村長の家の前に立っていた。
俺様はいつもと変わらず、強めに扉を叩く。
ドンッ、ドンッ!
いつもなら、ノインの口うるさい説教が飛んでくる。
だが、今は静寂だけだ。
キィ。
一拍置いて、扉が開く。
そこには、ノインの姿。
しかし、その顔に表情は無い。
「ありがとうノイン。部屋に戻ってなさい」
家の中から、村長の声が響く。
ノインは言われるがまま、ゆっくり奥へと戻っていった。
俺様は頭をぼりぼりと掻きながら、無言で家へ上がり、椅子へ腰を下ろす。
村長は奥で茶を淹れていた。
ふと隣の椅子に視線を向ける。
いつもならノインが座っている席。
だが、今は空席となっている。
ノインが隣にいないと、こんなにも静かなものなのか。
いつも煩わしかったあの小言が、今では――。
コトン。
テーブルに湯呑が置かれる音で、視線が前へ戻る。
「待たせたのぅ」
いつの間にか、向かいの席には村長の姿。
「気にすんな。それより……ノインは相変わらずのままなのか?」
返事は無い。
代わりに、村長は目を伏せる。
それだけで、十分だった。
回復も無ければ 、悪化も無い。
ただ時間だけが、無為に過ぎ去っているだけ。
俺様は無意識に拳を握っていた。
何か言おうとして……だが、その"何か"が出てこねぇ。
「……化け物の方は?」
話題を切り替えるように問うと、村長は再び首を横に振る。
「あの日を境に、何処にも出現しておらん」
「……そうか」
それ以上、聞くことはなかった。
俺様は奥にいるノインを一瞥してから、立ち上がる。
踵を返し、扉へ手を伸ばした時。
「……おぬし、少しは気を休めてはどうじゃ」
村長の声が、背中に刺さる。
「村でもあまり……良い噂は流れておらぬ」
あぁ、分かってるさ。
カンニヴァルを匿ったことに対する不信。
化け物を屠る俺様の、常軌を逸した力への恐れ。
そしてノインの状態。
疫病神と呼ぶ者もいる。
……仕方ねぇ。
俺様は何も答えず、ただ静かに村長の家を出た。
今は大人しく、社へ帰る方がいいだろう。
そう考え、石階段へ戻ろうとした時。
嫌な気配。
気が付けば、空は黒雲に呑まれ、陽光は跡形もなく掻き消えていた。
肌を撫でる風は、やけに冷たく、重い。
気配は、"あの浜辺"の方角からだ。
まるで俺様を呼んでいるみてぇな感覚。
なら……答えは決まってる。
俺様は、躊躇なく走り出した。
浜辺へ近づく程に、胸の奥で黒い靄が蠢き、騒ぎ始める。
それは本能が警鐘を鳴らしているみてぇだった。
だが、そんな事は知ったことか。
俺様は、もう手遅れになるような真似はしねぇ。
あいつがいるこの村を、守らなきゃならねぇんだ。
草木を搔き分け辿り着いた浜辺。
そこで俺様が見たのは――。
「……なんだ、これは」
海が……黒い。
いや、ただ黒いんじゃねぇ。
波打つ水面は粘つき、ドロリと重く、全てを呑み込む闇そのものが、海を形成しているみてぇだった。
ドクンッ。
胸の奥が軋む。
……ん?
黒い海と砂浜の境界。
そこに、小さな人影があった。
背丈は低く、細い肩。
後ろ姿から察するに、それは少女だった。
ったく、何をしてやがんだ。
この異常な海を前にして、危機感の無いガキ。
俺様は一歩、前へ出て呼びかける。
「おいお前。こんな所に、子供一人で――」
言葉の途中、少女がゆっくりと振り向く。
色の無い、漆黒の瞳と視線が合う。
その瞬間、俺様は理解した。
……違う。
こいつは"人"じゃねぇ。
正真正銘の化け物。
いや……“化け物”なんて生易しいもんですらねぇ。
恐らくは、カンニヴァルの言っていた溟海の主。
何故そう思ったのか?
簡単な理由だ。
そこに“在るだけ”で、序列が決まってしまうような圧倒的な存在感。
空気は重くのしかかり、心臓を見えない手で鷲掴みにされているようだ。
少女の口が動く。
「……待っていたわ。坊や」
甘く、柔らかい声。
だが、その一言は大気を震わした。
……坊やだと。
その呼び方で、俺様は理解してしまう。
こいつ、
少女の背後で、黒い水面が大きくうねり始める。
それは、海の底に潜んでいた大きな存在が、ゆっくりと身を翻したかのような動き。
……グォォッ。
本能に直接揺さぶりをかけてくる、低い音。
空気に振動が走り、浜辺の砂が沈む。
反応が遅れた俺様は、足を砂に呑まれ跪く。
まるで、同じ目線に立つことを許されていないかのように。
反射的に、俺様の身体から黒い靄が噴き上がった。
それは防衛本能であり、抗う意志。
だが、少女はそれを見て、静かに溜息を吐くだけ。
「はぁ、坊やはまだ……第一段階なのね」
……第一段階だと?
一体何を言ってやがる。
「……この程度の器で、本当に大丈夫なのかしら」
その呟きと同時に。
黒海が割れ、浜辺を吞み込むように、空間を覆っていく。
続いて少女の背後に現れるのは、巨大な影。
それは生物の域では無い。
例えるなら、動く地形。
山のような背に、光を吸い込む黒皮。
そして、開けば村一つを丸呑みにできそうな……底知れぬ“大口”。
その生物の存在そのものが、世界の理を踏み潰している。
少女が一歩近づく。
たったそれだけの行動で、心臓を鷲掴みにされているような緊張感が走る。
風も黒を纏い、視界は侵蝕されていく。
次の瞬間、少女はすぐ目の前に立っていた。
風が止む。
否、それだけでは無い。
潮も、空気も、音すらも、少女の前では口を閉ざした。
「私の名は――レヴィ・メルレイ」
黒い瞳が、俺様を射抜く。
いや……呑み込むと言った方が正しいか。
「……坊やを生み出した存在よ」
少女が告げた言葉に、俺様は言葉を失う。
それは明らかな動揺。
俺様は自由の効かない身体を、無理やり立ち上がせる。
……ふざけんな。
俺様を生み出した存在だと?
出まかせを言いやがって。
気づけば足が前に出ていた。
「俺様は、貴様みたいな化け物を親に持った覚えはねぇ!」
拳を強く握り締める。
すると胸の奥で蠢いていた黒い靄が、呼応するように身体を包み込んだ。
「――
咆哮と共に踏み込む。
その一撃は、空気を裂き、背後には黒虎の影を立ち上がせた。
だが、レヴィは一切動かない。
視線が僅かに動く。
その瞬間、レヴィの前に黒い水柱が立ち上がる。
俺様の拳は、直撃する直前に全て呑み込まれた。
「……坊や、その程度の力では、決して耐えられないわ」
諭すような、冷たい声。
次の瞬間。
ドゥコォンッ!
腹の底に、深く重い衝撃。
黒い靄が悲鳴を上げるように霧散し、俺様の身体は宙を舞った。
「うんぐぁッ……!」
呼吸すらままならねぇ。
視界もぐるぐる回り、空と海と大地がぐちゃぐちゃに溶け合う。
クソ……!
体勢を整えてぇが、痛みが全身を駆け巡ってそれどころじゃねぇ。
ドガァァンッ!
激しい音と共に、背中に走る硬い感触。
俺様はゆっくり目を開け、辺りを見渡す。
……ここは、社?
どうやら、御神木の前まで吹き飛ばされたらしい。
肺から空気が一気に抜け落ちる。
喉から漏れるのは、掠れた息だけ。
「……ったく……なんて、馬鹿力だ」
浜辺の方角を見る。
遥か先、黒海の縁に立つ少女の影。
レヴィの視線が、こちらを捉える。
「この程度ではまだ。そうね……少し強引なやり方だけれども仕方ない……堕とすわ」
風に乗って、無機質な声だけが届く。
……何を、言ってやがる。
レヴィが手を伸ばす。
向けられた先に在るのは、アーダン村の沿岸部にある民家。
嫌な予感が背筋に走る。
「……止せぇ!」
俺様は、喉が裂けるほど叫んだ。
次の瞬間。
黒海が津波のように押し寄せ、民家を丸呑みにする。
ほんの一瞬の出来事。
もうそこには、何も残っていない。
ただ黒海が蠢いているだけ。
予感は当たってしまった……。
「クソがぁぁぁッ!」
俺様は地面を何度も……何度も殴りつけた。
ちくしょう……何て事をしやがる。
「あら、まだ足りなかったかしら?」
再び届く、レヴィの声。
次はアーダン村の中心部を指差していた。
ふと脳裏に浮かんだのは――ノイン。
こんな所で、くたばってる場合じゃねぇ。
早く……あいつを止めねぇと。
歯を食いしばり、無理やり身体を起こす。
だが視界は暗転し、意識が静かに遠のいていった。
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