第4話 ちゃんとした母親になりたいと思った夜
子どもが寝たあと、
キッチンだけが明るかった。
シンクには洗い終わった皿。
水滴が、ぽたぽた落ちている。
私は、テーブルに肘をついて、
何度目かわからないため息をついた。
「……また、怒っちゃった」
今日も。
宿題をやらない。
ゲームをやめない。
話を聞かない。
気づけば、声を荒げていた。
泣きそうな顔で部屋に戻る背中を見て、
胸の奥が、ずっと痛い。
――私、母親向いてない。
その考えが、
最近は頭から離れなかった。
包丁を洗いながら、
ふと、思ってしまった。
――いなくなった方が、
この子のためなんじゃないか。
「いやいやいや!!
包丁持ちながら、その結論は早すぎる!!」
背後から、
やたら慌てた声がした。
「……え?」
振り向くと、
スーツ姿の中年男が、
宙に浮いていた。
「……誰?」
「誰でもええ!
それより一旦、包丁置こ!!」
思わず言われた通りに、
シンクに包丁を戻してしまう。
「……あなた、幽霊?」
「せや。
ほんで今のお前、
『理想の母親』に殺されかけとる」
「……理想?」
幽霊は、
ため息をついた。
「優しくて
怒らなくて
いつも正しくて
失敗しない母親」
指を折りながら言う。
「そんなもん、
人間ちゃう」
私は、
思わず苦笑した。
「……でも、
ちゃんと出来てない」
「出来てへんのはな」
幽霊は、
はっきり言った。
「全部や」
「……え?」
「子育てなんてな、
全部出来へん」
幽霊は、
キッチンの椅子に腰を下ろす。
「出来てへんとこを、
『今日も一緒におる』で埋める仕事や」
胸が、
じわっと熱くなる。
「……私、
あの子を傷つけてる気がする」
「そら、傷つく日もある」
幽霊は、
うなずいた。
「でもな」
声のトーンが、
少しだけ柔らかくなる。
「逃げへんかった母親の背中は、
ちゃんと残る」
「……」
「怒ったことよりな、
『明日もおる』ほうが、
ずっと強い」
私は、
子どもの部屋のドアを見た。
向こう側で、
静かな寝息が聞こえる。
「……でも、
私がいなかったら、
もっと楽に――」
「ならん」
幽霊は、
即答した。
「子どもはな、
『完璧な親』やなくて、
『帰る場所を与えてくれる人』が必要や」
その言葉に、
目の奥が、じんとした。
「……じゃあ、
私はどうすればいい?」
幽霊は、
少し考えてから言った。
「今日はな」
そして、
拍子抜けするほど簡単に言う。
「メグリズムでも付けてグッスリ寝るんや」
「……え?」
「疲れとる母親はな、
判断力バグる」
私は、
思わず笑ってしまった。
「……それでいいの?」
「そや」
幽霊は、
手をひらひら振る。
「明日また怒ったら、
『ごめん』言えばええ」
「……」
「『ごめん』言える大人がな、
一番強い」
私は、
キッチンの電気を消した。
廊下の暗闇の中で、
小さく息を吐く。
「……また、会える?」
幽霊は、
いつもの調子で言った。
「『私なんかいらん』って
思いそうになったら、
だいたいおる」
布団に入ると、
体が、すとんと沈んだ。
ちゃんとした母親じゃなくていい。
明日も、
ここにいる母親でいればいい。
それだけで、
今日は終わってよかった気がした。
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