3海は氷の味

それから暫くして、私たちは車の中にいた。


あの後、ユウちゃんが園内を案内してくれたが、用事があるらしく別れることになった。 ユウちゃんのお兄さん(名前がわからないけど)が「キッチンが空いたよ」と声をかけていたので、おそらく何か手伝わなければならなかったのだろう。


私たちは袋いっぱいの甘夏を抱え、果樹園を後にした。


兄は上の空だった。サイドガラスに肘をかけ、口を半開きにして空を眺めている。まるで「恋をした少年」そのものだ。


「葵、ねむ。ちょっと海寄ってかない? すごく綺麗だし!」 母の提案に、兄がハッと正気を取り戻した。 「行こうぜ、海。ねむも足浸かる? 母さん! 次はなんの曲!?」 「そうだねー。イパネマの娘なんかどお? ねむ!! ボーカルでいいの無いー?」 ママはまた私に選曲を任せてくれる。


任せてくれ。 日本人なら小野リサの『イパネマの娘』一択でしょ! 私は慣れた手つきで選曲する。 スピーカーからはボサノバのゆったりとしたテンポと、軽快なリズムが私たち3人を包み込む。ブラジルのリオデジャネイロの海岸を歩く美しい娘の歌……という設定だけど、今日はユウちゃんがイパネマの娘ってことで良いかも。


「あぁ。ユウさん……綺麗だったなぁ。」 お兄ちゃんは、曲の影響なのかまた恋に焦がれている。 「良いねえ。穏やかな気候と海。小野リサで正解かもっ! ねむやるじゃん!」


どんなもんだい! 私は胸を張り、ボサノバのリズムに乗りながらすぐ近くの海へ向かった。


車は道路を進み、向かいの駐車場に入る。その隣には冰の杜学園があった。背後に山、正面には富山湾と立山連峰。果樹園、棚田まで揃っていて、まるで自然の贅沢セットのような土地だ。


ほえー。ここが交流授業の場所なんだ。 人少ないなぁ。ユウちゃんはここの学校なんだろうか。


私たちは靴をサンダルに履き替え、海辺へと向かった。脚だけでも海に浸かってみたかったからだ。 「おい。ねむ一応マスク。砂、喉に入れんなよ?」 お兄ちゃんがマスクをぶっきらぼうに渡す。 確かに喉に砂が入るのは勘弁だ。また昨日の夜のような地獄は味わいたくない。


私は「早く行きたい」という衝動に駆られながら、雑にマスクをしてお兄ちゃんの背中を追う。


駐車場と道路を挟んだ向こう側に、少し開けた広場があり、その奥には三日月型の海岸が二つある。 左側の一つは深めの海で浜辺は無い。 右側のもう一つは浜辺があり、透明な海水が寄せては返すを繰り返している。


だが、浜辺に降りた瞬間、左側の海で大きな音がした。 私は息を呑んだ。 まただ。さっき棚田にいた黒人の屈強タンクトップニキが――今度は海に潜っている。


「ぶぅはー!! ボラがぁ!! 俺に勝てると思うなっ!! がはははは!!」 ニキは海面から豪快に飛び出し、暴れる魚をその手に掴んでいた。


……屈強すぎる。


続いて、水しぶきの中からもう一人――コワモテの美少女ネキが姿を現す。 「テメェよ!! なんで私が作った**仕掛け(魞)**に突っ込んでんだよ!! テメェで作れよグラァッ!!」


私はその強烈な言葉に、一歩二歩と後ろにたじろぐ。 やばい。怖すぎる。言葉遣いが完全に女子じゃない。しかも黒人ニキは日本語ペラペラ。


母も兄も私も、口をあけたまま呆然と彼らを見つめるしかなかった。


「お、おい……なんだこれ。氷見ってこんな所なのか?」 兄がそう呟き、私も心の中で同じ言葉を繰り返す。


なんなの、ここ。



兄は顔を引きつらせながら囁いた。 「ど、どうする? 少し離れようぜ……あれは怖すぎる。」


ママも青ざめた顔で小さく頷く。 「そ、そうね。邪魔しちゃダメよね……」


私も同じ意見だった。あんな人たち、近くにいたら寿命が縮む。


すると空気が反転する。 その瞬間、屈強ニキは狂気の笑みを浮かべ、手にしたボラの頭を――ボキリ、と音を立てて折った。 血飛沫が彼の顔に弧を描き、赤いしぶきが陽光を反射してギラリと光る。その顔はまるで鬼の仮面のように邪悪だった。


「ぎゃぁぁぁ!!!」 ママの悲鳴が浜辺に響き渡る。 私の喉からも「ピャーッ」と細い音が洩れた。声が出せない私にとっては、それが精一杯の恐怖の叫び。 そう。声ではなく私の恐怖の効果音とでもいうのだろうか。ビックリすると喉からランダムで変な音が鳴るのだ。


草。


「嘘だろ……」 兄は目を見開き、掠れ声でそうつぶやいた。


コワモテネキが眉を吊り上げて怒鳴る。 「おい! 水の中でやれ! 見られてんだよ!」 「わ、悪ぃ……。あ! 後ろ囲えっ!!」


屈強ニキが叫んだ瞬間、二人は再び海へ飛び込み、白い水飛沫を高くあげながら深みに消えた。 その残響が辺りに残り、私たち家族は呆然と立ち尽くす。


「シャァ!! 逃がさねえぞぉ!!」 コワモテ美少女ネキは狂気じみた声でボラを追って海へ消えていく。 チラリ覗く表情はまるでシリアルキラーの如く。 笑っている。


なんじゃこりゃ……氷見コワ……。 心の中でつぶやかずにはいられなかった。 さっきまで氷見とは、ユウちゃんや王子のような優しさにも似た神秘的な雰囲気を感じていたのが一転、今は狂気が入り混じるカオスだ。


私たちは彼らとは反対方向へそそくさと移動し、ようやく砂浜に腰を落ち着けた。足元の砂はさらさらで、踏みしめるとひんやり心地いい。遠くからは、まだニキとネキの馬鹿笑いが響いてくる。


その時、兄が笑顔を作り直して声を張り上げた。 「ねむ! 入るだろ? 海!」 そう言うと、子供のように勢いよく波打ち際へ走り出した。


私は少し迷ったが、結局兄を追いかけて駆け出した。 目の前に広がる海は驚くほど透明で、白い砂が透けて見える。波が寄せるたび、ガラスの欠片のようにきらきら光り、宝石の海みたいだ。


「ねむ! せーので飛び込むぞ! ジャンプだ!」 兄は私に笑顔を向ける。胸がわくわくしているのが伝わってきた。


私は頷いた。


「よしっ! せーのっ!!」 私たちは同時にジャンプし、海にジャバンと飛び込んだ。


……次の瞬間。


「ぬうぁーーー!!! 冷てっ!! ヤバヤバッ!!」 兄が海水の冷たさに飛び跳ね、必死に暴れている。 私も負けずに足をばたつかせ、冷たさから逃げるように浜辺へ駆け戻った。


――無理だ! この水温、真冬並じゃないか!?


振り返ると、さっきまで平然と海に潜っていた屈強ニキとコワモテネキが視界に浮かぶ。 ……あの人たち、どんな身体してるんだろう。海水は10℃くらいだ。冷たさを感じないのか!? 怪物か!?


そんな私とお兄ちゃんの大騒ぎを見て、ママは腹を抱えて笑い転げ、ついには地面を叩いて爆笑していた。



すっかり海の冷たさにトラウマを覚える。


ふと横を見ると、ママがまだ笑っていた。あんなに楽しそうに笑う顔を見たのは久しぶりかもしれない。兄も同じで、海水から逃げ出した時の必死の表情が崩れて、今は無邪気な笑顔になっている。


――こんなに充実した休日なんて、いつぶりだろう。いや、多分初めてかもしれない。


泣いて、笑って、氷みたいに冷たい海に飛び込んで、叫んで――そんな自分がなんでこんなに楽しいのか、不思議だった。


視線を上げると、兄はまた海の縁に立ち、脚を冷たい海に浸けて両手を合わせ、修行僧みたいな顔をしている。


……大丈夫なのか?


「ん! ん! ぬわぁー! ダメだぁ!! 波で脚の感覚がぁ!! ぐわぁー!!」 兄は耐えきれず、浜辺に打ち上げられた魚のように砂の上でのたうち回った。


「葵ー! 砂っ! 砂ぁ!」 ママが慌てて兄に駆け寄り、服についた砂を手で払っている。


……おもろい。


私は笑いながらスマホを向けて、その光景を撮ってしまった。だが操作を間違えて、画面には自分の顔が映し出される。


そこにあったのは――見たことのない自分の笑顔。


笑ってる。 しかも、自分でも知らないような、別人みたいな笑顔だった。


少し怖くなって、私は慌ててカメラを切り替えた。 誰だ、あれは……本当に私?


「ちょっとぉー! 葵ー。服が砂だらけじゃーん! 車そのままじゃ乗せないからねえー!」 ママのセリフは叱っているみたいだったが、顔と口調は最高に笑ってる。


「いやさぁ! あの魚狩りの2人見てて自分も行けると思うじゃん!? 慣れると思うじゃん!?」 兄は不満げに叫びながら、さっきの屈強ニキと強面ネキの方を振り返る。


「本当だねぇ。ここら辺の子なのかなぁ。凄いわぁ。野生児って感じっ!! はははっ!」 ママも肩を揺らして笑う。その言葉どおり、2人はまさに野生児そのものだった。


すると、また姿を現した。


ポケットに手を突っ込んだまま、アラブの王子様のような男の子がこちらへ歩いてくる。


「お前らぁ!! いつまでやってんだ! 早く上がれ!」 声を張り上げて、ニキとネキに呼びかける。


「「ういー。」」 2人は同時に返事をすると海から上がり、びしょ濡れで重たくなったTシャツをその場で脱ぎ捨てた。


――そう、2人とも。


……え? 2人とも!?


強面ネキまで脱いでる!?


わ、わわわわ!!



すると王子は強面ネキの背中にバチンと平手を叩いた。 「ぬああああああ!!」 強面ネキが悲痛な叫びをあげる。


「お前までなんで脱ぐんだ! 胸膨らんでんだろ! バカかっ!」 叱り飛ばす王子。


すると屈強ニキが待ってましたとばかりにサイドチェストのポーズを決める。 「見て見てっ!! 大胸筋! 俺も膨らんでる!!」


「は!? 昼間っからバカやってんな! 行くぞっ!」 王子は呆れ顔のまま、屈強ニキに目もくれず強面ネキにタオルを投げつけた。


その横で、誰にも相手にされない屈強ニキは一人でポーズを変えながら、自分の筋肉を確認するようにうっとりしている。


……なんなんだこの空間。 反対側で繰り広げられる光景が強烈すぎて、息を呑むどころか笑うこともできない。ただ現実感がふっと飛んでいく。


私はちらりとママと兄を見る。二人とも同じだった。砂を払う手を止め、まるで時間が止まったみたいに王子とニキネキに目を釘付けにしている。


「か、帰る? 母さん。」 兄は冷めた声で、必死に冷静さを取り戻そうとしていた。


「そ、そうね。帰ろか。甘夏ジャムでも作ろぉかなぁ……はは…」 ママも力の抜けた声で同意する。笑っているのか、引いているのか、自分でも混乱しているようだった。


私も胸の中で同じことを思った。――もう帰ろう。


けれど問題はひとつ。 浜を上がって砂を落とす洗い場の前に、王子とニキネキがいる。つまり必ずすれ違わなきゃいけない。


「これさ。あの子達とちょっと近づいちゃうね。」 ママの声には不安が滲んでいる。


「この際。挨拶する?」 さっきまでビビり散らかしていた兄が、意外にも落ち着いた声で言った。


「そ、そうだね。一瞬だけ。こんにちは。くらいね。普通よ。普通。」 ママもぎこちなく頷く。


私も同じ気持ちだった。――怖い。でも、逃げ場なんてない。



私は兄の裾を掴みながら、ゆっくりと洗い場へ進んだ。 足元の砂がじゃりっと鳴るたびに、胸の奥がひやりとする。


洗い場に着いたとき、少しだけ息が楽になった。距離はあるけれど、向かい側には王子とニキネキがいて、冷たい水道水を頭から浴びている。


よかった洗い場二つあって…


「おい。見てくれよ。この水が滴る膨れ上がった筋肉。日の光が反射してまるで黒曜石だ。」 ニキはピクピクと大胸筋を動かしながら自分の身体に見惚れている。 「ナナ。早く流せ。あっち向くなよ。」 王子がニキのセリフを流して短く声を飛ばす。


確かに綺麗な黒だ。もう少し近くで見たい。 かも…


「わかってるって。ガキの裸見ても誰も興奮しねぇよ。それともなんだ? ロリでもいんのか?」


その瞬間、王子の手が鋭く振り下ろされ、パシンと音が響いた。 「ぬぁあああ!」 ネキが頭を押さえて叫ぶ。


「喋んな。早くしろ。……テメェもだ、正露丸!」


え? 正露丸? 唐突すぎて、思わず心の中でつっこむ。 その表現いいの?


ニキは全く気にせず、大きな身体に水を浴びながら、筋肉を誇示するようにポーズを取っている。鏡でもあるかのように自分の体を眺め、動きを確かめている姿は、もはや別世界だ。


私たちは三人並んで、声を殺しながら砂を洗い落とす。水の冷たさが手に刺さる。空気は重い。


そのときだった。 王子がこちらへ歩いてきた。影が伸びて、私の足元に重なる。


「申し訳ありません。見苦しいものをお見せしてますよね。本当にすみません。」


さっきまでの強い口調とは別人のように、深く頭を下げてくる。


「い、いいえ! そんなことないです! むしろ楽しく見てましたよぉ!」 ママが慌てて笑顔を作る。


「そ、そう言っていただけると助かります。」 王子は静かに答えた。その横顔はやっぱり彫刻のように整っている。


「ここら辺の子なの?」 ママが少し落ち着いた声で尋ねる。


「はい。そこの学校の生徒です。」


あの学校か――。思わず胸が高鳴る。


「さっきは甘夏狩りに来てくれてありがとうございました。」 王子の声は落ち着いていた。


「いえいえ! すごく美味しかったです! また帰って食べますね!」 ママは必死に受け答えをしている。


「よかったらまた来てください。10月からは本番で"みかん"が凄い美味しいです。」


その言葉に、私はつい一歩前へ出てしまった。 みかん大好物だからね。


すると王子の視線が私に向く。 しまったと思い斜め下に目線を逸らした。


「ああ。さっきユウと仲良くしてくれた子だね。ありがとう。ぜひ来てね。」


返事なんてできなかった。ただ、私は必死に何度も頷いた。


そのとき、遠くから声が飛んでくる。 「兄ちゃーん! 洗い終わったー!」 「わかったー!」


流れるようなやり取りを交わし、王子はコワモテネキの方に帰って行った。


その場に残ったのは、安堵と脱力。まるで嵐が過ぎ去ったかのようだ。


……でも頭の中は混乱でいっぱいだった。 ユウちゃんのお兄ちゃんがあの王子? でも強面ネキが「兄ちゃん」と呼んでたし……じゃあ妹なの? そして「正露丸」って、その表現本当にいいのかな……


流石にあの屈強ニキは中学生じゃ無いよね… 大きすぎる…


分からないことだらけ。けれどひとつだけ確かなのは――この氷見という場所は、想像を超えた世界だということ。



家に着き、しばし休憩を取る。


私は机に腰を下ろし、iPadを開いたまま、Apple Pencilをくるくると回す。 でも、さっきから頭の中は別のことでいっぱいだ。


芦名ユウちゃん。右目は夜明け色、左目は真珠色。光そのものを宿したような絶世の女神。 そして、ポケットに手を突っ込み、天然パーマを風に揺らすアラブ王子ニキ。 その横で鋭い眼差しを放ち、強面オーラ全開のコワモテ美少女ネキ。 極めつけは田んぼに寝転がってタッパーのおにぎりを土ごと頬張る、屈強タンクトップニキ。


……おかしくないか? 王子がお兄ちゃんって事は全員「芦名」って苗字なんだよね? あ。タンクトップニキはまだ関係性は確定してないか… でも、人種も体格もキャラ属性も、全方向にバラバラ。 どう見てもガチャを回して全レアリティを引き当てたみたいなカオスパーティーだ。


私は頬杖をついて、ひとり探偵モードに入る。 確かに「似てない」。でも、あの空気感は「家族」そのものだった。 目の奥に流れる共通の光、同じルールで動く呼吸。 ……もしかして、この家系、普通の血縁じゃない? 神に選ばれた「異能血統」なのでは!?


そうだ。ユウちゃんの手話。 あれはただの会話じゃない。 流れるような動き、細部まで完璧に磨かれた指先。 「遊び」だなんて軽い言葉で済ませられるものじゃない。 あれは――封印された魔術言語だ。 古代より伝わる、禁忌の無詠唱術式。 きっと芦名の家はそれを血脈として継承しているんだ……!


Apple Pencilをカタカタ机に転がしながら、私は小さく笑う。 ははっ、これ、完全に厨二病の妄想じゃん。 でも、心臓の奥でざわめく。 本当のことなんじゃないかって。


ペン先を握りしめ、私はひとり宣言する。


――芦名家。お前ら一体何者なんだ。


ふと思いつき私はチラリと鏡を見る。


やべっ。また1人で笑ってる。



ノックの音。足音でわかる、お兄ちゃんだ。 ドアを開けると、シャワー上がりで髪をタオルで拭きながら立っていた。 ……うほぉー! かっちょいー!!


「ねむ。早く数学令嬢読めよ? お前が止まってっから、いつまで経っても2巻に行けねぇんだよ。」


そうだった。忘れてた。 でも、今はどうしても芦名のことで頭がいっぱいなんだ。


私は指先まで神経を集中させて、ユウちゃんのように丁寧に手話を送る。 【お兄ちゃん。2巻、先に読んでて? 私、後で読む。】


兄は一瞬きょとんとした後、口元を緩めた。 「……いいの? なら、お構いなく〜♪」 軽い調子でくるっと振り返り、自分の部屋へ戻ろうとする。


でも、扉の前でふっと立ち止まり、もう一度こちらに振り返った。 「なぁ。さっきの手話……なんかキレがあったぞ。魔術っぽかった。おもろ。」


そう言って、ニヤッと笑いながら部屋に消えていった。


え? 魔術? ……やっぱそう見える?


私は胸がざわついて、鏡の前に立った。 さっきと同じ手話をしてみる。


【お兄ちゃん。2巻、先に読んでて? 私、後で読む。】


手が空気を裂くみたいに、はっきりとした軌跡を描く。 輪郭がある。線が残る。 まるでNHKの手話通訳者が舞台の上で放つ、演説みたいな迫力。


きゃーーー!! これ、上級魔法陣じゃん!!


思わずジャンプしそうになって、机にペンシルを叩きつける。 私のテンションは完全に限界突破していた。



妹の部屋から、ガタガタと机を揺らす音が聞こえてくる。 ……なんだよ、ねむのやつ。うるせぇな。 数学令嬢が全然読めねぇじゃん。


そう思いながらも、本の文字は頭に入ってこない。 代わりに浮かぶのは、今日の出来事だ。


芦名ユウさん。 ……美人だったな…まるで別世界の人間。


でも、それよりも強く残ってるのは――ねむだ。 今日のねむは、ずっと笑ってた。


果樹園に着いたとき、一度泣いた。 けど、その後は……驚くほど、笑ってた。


俺は妹が大事だ。大事すぎる。 正直に言う。シスコンだ。


四つ離れた妹。 よくある兄妹の喧嘩なんて、うちにはない。 ねむはいつも俺の裾を掴んで、金魚のフンみたいにくっついてくる。


声は持っていない。 耳は聞こえるのに、声だけが無い。


小一の頃、ねむは少しだけ普通の学校に通った。 俺と同じ校舎で。でも……うまく馴染めず、いつも一人だった。


あのときの俺は、ただ遠くから見てるだけ。 手を差し伸べなかった。 今でも後悔してる。


幼稚園の頃は、もっと笑ってた。 でもあれから――ほとんど笑わなくなった。


趣味の話をすれば、一瞬だけ笑う。 でも、すぐに素の表情に戻る。 わがままも言わない。 言えば、その通りに動く。 ……そんな妹も可愛かった。


でも今日は違う。


棚田を眺めて、一人で笑っていた。 甘夏を見て、表情がゆるんで。 実を頬張って、幸せそうに目を細めて。


海でもそうだ。 黒人の子や鋭い目の女の子を見て、本気で怯えた顔。 冷たい海に飛び込んだ時の、あの慌てた表情。


……全部、初めて見る顔だった。


あいつに必要なのは、きっとあそこなんじゃないか。 笑って、泣いて、怯えて、全力で楽しめる場所。


でも――まだ早いかもしれない。 焦らなくていい。ゆっくりでいい。


ふと居間をのぞくと、親父がiPadで本を読んでいた。 ……「数学令嬢」。


おい。もう三巻目!?


はは。ねむに怒られろ。

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