第3話 舞踏会に向けての特訓
午後の陽が斜めに差し込む小さなサロン。その部屋は、アリアンヌの屋敷の離れにあり、使用人は近づかない。
まるでこの密談のために存在しているような、秘密の空間だった。
「王妃の弱みは確かに存在します。けれど、その鍵を握っているのは、宰相リシェル様です。」
ザラと王妃が繋がっているのは間違いない。
アリアンヌはテーブルの上に数枚の書類を並べる。
レジーナは、彼女の真向かいに座っていた。
質素なグレーのドレスに身を包んでいた。
「私がザラ侯爵令嬢を引き落としたい理由は、あなたの政治的な闘いとは違います。だけど……お互いを利用する気はあるんですよね?」
レジーナが目を細めて尋ねた。
「ええ。だから、こうして会っている。貴方のザラ侯爵への復讐も私が面倒を見るわ。」
レジーナが、一通の手紙をアリアンヌの方へ滑らせる。
「これは?」
「ザラ様がスチュート様に送った、非公式の手紙の書き写しです。ザラ様がスチュート様と繋がっていた証拠です。でもこれだけでは不十分です。ザラ様自身の口から証言させる必要があります。」
「陥れるってことね。あの女に……喋らせる」
アリアンヌが言った
アリアンヌは冷たい紅茶を一口啜る。
「だったら、釣り糸は私が飲ませる。けど、、、その後の獲物の処理はあなたの仕事よ。」
レジーナは窓の外を見つめた。
「ザラ様が私からスチュートを奪った時、泣き寝入りしろと誰もが言いました。」
「怒ってないの?」
「起こりたくても怒れない状況ですから。」
(こういうおとなしそうな女の子に限って、怒ったら怖いのよね。絶対敵につきたくないわ)
「よろしい。その怒りと記憶、利用させてもらうわ。」
アリアンヌも手袋を嵌めながら静かに言った。
「後、レジーナ。あなたにはまた学園に戻ってほしい。」
「え……」
レジーナが何かに怯えるような顔をした。
「あなたは、周りの批判の目に弱すぎる。
もっと批判を浴びなさい。
あなたの敵は、あなたの15倍以上批判を浴びてきたと思いなさい。」
「でも、怖いです。批判を浴びたら何もできない。
アリアンヌ様はどうやって対処しているのですか」
アリアンヌは淡々という。
「なんでその批判がきたのか分析して原因を特定し、状況改善に繋げるわ。」
「なるほど……」
彼女の発言は、迷いが一切ない。まるでこの展開を最初から予測していたかのように。
「まずは、舞踏会よ。」
「えっ……舞踏会?」
レジーナは目を見開く。かつてあの場所でどれほどの侮辱を浴び、どれほどの視線に晒されたか、彼女の脳裏に生々しく蘇る。
「王妃の後援で開催される、例の学園合同舞踏会。あそこが最初の戦場になる。
冷たい目を浴びるいい練習にもなる。」
アリアンヌは言う。
その口元には微かに笑みが浮かんでいたが、それは優しさではなく、計画を愉しむ策士の微笑だった。
「あなたの名誉は、あの場で取り戻すの。私が舞台を整える。あなたは、完璧に踊って、完璧に笑って、完璧に勝つのよ。」
「……勝つって、何を?」
「“彼らの思い込み”によ。」
その答えに、レジーナの喉がすっと冷える。
王妃に仕える貴族令嬢たちの中傷、陰で囁かれる嘲笑、虚飾に満ちた評価と、巧妙に貼られた“没落貴族”というレッテル。
それらを“勝つ”とはどういう意味なのか、レジーナにはまだ完全には理解できない。けれど、アリアンヌの声に乗った言葉が、不思議と体の芯に響いた。
「私は戦い方を教えるわ。微笑みひとつで人を沈める方法も。歩き方一つで侮蔑を圧倒する方法も。あなたは今から、ただの令嬢じゃなくなる。」
「……ただの令嬢じゃ、なくなる?」
レジーナが問うと、アリアンヌはようやく振り返った。
その瞳は、王妃すら冷やしそうなほどの静かな炎に満ちていた。
「ええ。私たちは、“誰かの人形”をやめるのよ。」
その日から、レジーナの生活は一変した。
アリアンヌの離れで舞踏会に向けての特訓が始まった。
「まずは、歩き方。」
最初に、アリアンヌがお手本を見せる。
アリアンヌ様は、本を頭に乗せると、とても綺麗に背筋を伸ばし一本道を渡るように優雅に歩いた。
(わぁ、、、。)
「人って歩き方一つで結構変わるのよね。
バレリーナもそう。歩くだけでとても美しいバレリーナなら、その踊りを見てみたいと思うでしょう?」
廊下の端から端まで、レジーナは何度も歩かされた。背筋を真っすぐに、首筋には気高さを。
恐怖を感じるときほど、優雅に。
気持ちを覆い隠すように、微笑む。
「あなたの一歩が、あなたの“階級”を証明するの。侮られたいのなら、背を曲げればいい。」
アリアンヌの言葉は厳しかった。だが、その声には、どこか自分自身に語りかけているような苦さがあった。
「……アリアンヌ様は、なぜそこまでしてくださるのですか?」
ある日、稽古の合間にレジーナがぽつりと問うと、アリアンヌはほんの一瞬だけ、目を伏せた。
「何でかしらね。」
数秒ほど頭を悩ませたアリアンヌの結論はこうだ。
「私は、“過去の私”を見捨てたことがあるの。」
「……え?」
「あなたを助けているようで、私は、あのときの自分を許したいだけなのかもしれない。私もかつて、誰かに救いを求める声を、聞こえないふりをしたのよ。」
それ以上、アリアンヌは語らなかった。だがその背中は、いつもの完璧な仮面の奥に、傷を抱えていることを物語っていた。
レジーナは黙って、拳を握った。
舞踏会まで、あと三週間。
レジーナは、ドレスの選定から舞踏のステップ、淑女の微笑み方まで、怒涛のように吸収した。
時に涙をこぼしながら、時に夜を徹して、それでも彼女は立ち止まらなかった。
そんなある夜――
レジーナ手元に、一通の封筒が届く。
封蝋には、王妃直属の「紋章」。
レジーナ・バサリサの名で招待された、王妃主催の
“仮面舞踏会”への正式な招待状だった。
アリアンヌはそれを見つめながら、低く笑った。
「さあ、ゲームの幕が上がるわ。
レジーナ、あなたが“ただの令嬢”を捨てたその先、何を見るのかしら。」
舞踏会当日。王城の大広間は、まるで金で塗り固められた牢獄だった。
天井には無数のクリスタルが吊るされ、音もなく揺れる。壁には精緻な刺繍が施された深紅の幕。貴族たちの笑い声と絹の衣擦れが波のように広がる中、その夜の“主役”たちはまだ現れていなかった。
レジーナはアリアンヌの個室サロンへと急いでいた。
待ち合わせがそこだからだ。
レジーナは駆け足でそこに向かい3回ノックをしてから入る。
「すみません。お待たせしました。」
「あぁ、レジーナ。遅かったわね。」
レジーナは思わず息を呑んだ。
絶世の美女がいる。
髪はおろしていて、シンプルな赤色のスリットドレスを着ている。
……自分が隣に立ったら眩んでしまうのではないだろうか。
「あぁ、レジーナ。いらっしゃい。」
「遅れてしまい、すみませんでした。」
「いいのよ。時間はまだたくさんあるのだから。」
今日、レジーナはアリアンヌのサロンで舞踏会への準備を整える。
「色や髪型に指定はある?」
「ないです。お任せします。」
「それは良かったわ。」
アリアンヌがレジーナへのドレスを準備している間、レジーナは化粧を施された。
「肌がとても綺麗ですね。」
メイクをしてくれたアリアンヌの侍女がレジーナに話しかけてた。
「ありがとうございます。
特別な化粧品などは使っていないんですが。」
「普段お菓子は食べますか。」
「いいえ、あまり。」
「なるほど。納得しました。」
そう言われたレジーナは思わず首を傾げる。
「どういうことですか?」
「この年頃の普通の令嬢は、毎日化粧をし、たくさんのお菓子を食べます。なので、どうしても肌が荒れてしまうのです。」
「そういうこともあるんですね。」
そんなことしているうちに、目元のメイクは終わった。
「アリアンヌ様も綺麗ですよね。」
「はい。お嬢様はあまり化粧やお菓子をお好みにならないので。それよりは運動を好みます。」
レジーナは感心した。
自分とは大違いじゃないか、と。
「さすがアリアン」
「あ」
レジーナが喋ったから、塗ってもらっていた口紅がずれてしまった。
そんなハプニングもありながら、なんとか化粧と髪型を完成させ、いよいよドレスを着ることになった。
「わぁ……」
思わずそんな声が出てしまうほど綺麗なドレスだった。黒いドレスに、星空が散りばめられているように金色の飾りが付いている。
「とても綺麗なドレスですね。」
「ありがとう。そうでしょう。」
アリアンヌは嬉しそう言った。
「世の中にはこんな綺麗なものがあったんですね。」
「私が作ったのよ。」
「、、、はい?」
「そのドレス、私が作ったのよ。」
レジーナは物心ついてから初めて表情を隠しきれなかった。そのくらい驚いた。
「その顔、やめなさい。
お化粧が崩れるじゃないの。」
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今日の豆知識
昔の貴族の化粧
アリアンヌ達が生きている時代は、17世紀をモデルに作っております。
当時の化粧品には自然由来のものから有害なものまで様々な成分が使われていました。
例えば、化粧水としてはローズマリーを蒸留したアルコールに漬けた「ハンガリー水」が知られています。
しかし、白粉には前述の通り鉛が含まれているなど、現代では考えられない成分も含まれていました。
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