天津川喜保と微笑の令嬢

七山 夏鈴

覚醒と論理の欠片

秋の夜は、都市の喧騒を氷結フリーズさせるほどの冷酷れいこくな雨を降らせていた。

室田刑事の身体からだは重く、冷たい雨水が襟元から滑り落ちるたび、彼は一週間前に踏み入れた非武川家の豪邸の、あの異常な温度を思い出していた。あの家は、富と歴史が織りなす絢爛けんらんたる形式フォルムの中に、哲学的な空白、すなわちアトポス《場所ならざるもの》を抱えていた。

彼が辿り着いたBARの名は**「ラポーズ」。フランス語で「休止」、あるいは「論理的な中断」を意味するその店は、外の世界の形式論や喧騒が、一時的に「フッサールのエポケー《判断停止》」を許される特異店シンギュラリティだった。

室田はカウンター席に崩れるように座り込む。ジャック。マスターは、彼の言葉を待たずして、完璧な、儀式的ぎしきてき所作しょさで珈琲の抽出を始めた。

「…あなたの対面たいめんにあるその珈琲は、カントの定言命法カテゴリカル・インペラティブ形式的けいしきてき模倣もほうしているわね。他律的で、目的合理性もくてきごうりせいのみに囚われている。論理としては凡庸ぼんようよ。その珈琲が放つ**「実存的な苦悩」の香りすら、あなたが求める『真理』とは無関係に、ただ惰性だせいで存在している記号サインにすぎない」

声は、カウンターの奥、薄暗いソファ席から響いた。冷たく、澄んでいながら、どこか少女特有の幼さ《おさな-さ》を残したその響きは、室田の若さ《わかさ》ゆえの緊張きんちょうを、さらに張り詰めさせた。

室田は困惑こんわくを顔に貼り付けながら、ゆっくりと振り返る。

そこにいたのは、黒と白のフリルを幾重いくえにも重ねた、過剰かじょうなまでに装飾的なゴスロリ衣装に身を包み、肘掛ひじか-け椅子に深く座り込む、天津川 喜保あまつかわ きほだった。その瞳に宿る、あらゆる事象を透過し、世界を**「論理の演算」として捉えるかのような「無限の冷たい光」は、彼女が十代の少女であるという事実を完全に冒涜ぼうとくしていた。

「……あなたが、天津川あまつかわさん、ですか。はじめまして」

「はじめまして、室田刑事。あなたの名前はジャックから聞いているわ。あなたがもたらした断片的な情報と、あなたの身体が纏う**『白い独房』の匂い**。そしてその顔に刻まれた**『既知の形式の敗北』という印**《しるし》から、この事件が求めている形式フォルム解読かいどくできたわ。あなたは、この事件を**『殺人』という、最も陳腐な形式フォーマットに閉じ込めようとしている。それが、あなたの論理ロゴスの限界よ」

天津川は、室田が鞄から取り出した分厚ぶあつい事件資料を、触れることもなく一瞥いちべつし、静かにだんじる。室田は、少女のあまりにも異様いよう傲慢ごうまんな論調に、反論の言葉ことばを見失った。

「形式論なんて、正直よく分かりません。でも、我々はほうに則って動いています。法が殺人だと定義している以上、我々は殺人の形式を追うしかない。それが警察われわれの仕事です」

「そう。だからこそ退屈たいくつなのよ。あなたの法律は、翡翠が仕掛けた論理ろんりを、既存の形式に無理やり押し込める《おしこめる》暴力ヴァイオレンスに過ぎない」

室田の反論に対し、天津川はただ微笑んだだけで、新たな言葉を発しなかった。カウンターの向こうで、ジャックが静かにグラスを磨いている。その手付きは、全てを知り尽くした観測者オブザーバーのようだった。

「坊や。熱くなるな」ジャックが低い声で言った。彼の視線は、グラスの縁の一点に集中している。「ここは、おまえの**『警察の論理』が通用する場所じゃない。俺が形式の解読者**《あいつ》を呼んだのは、上層部の論理が**『非武川家の財力という外部要因』**によって歪められていることを知っているからだ」

室田は唇を噛んだ。若い彼は、警察内部の政治的圧力せいじてきあつりょくに最も苛立っていた。

「わかっています、ジャックさん。でも、あの宣言せんげんは……一ヶ月の期限付きで**『私を完璧に殺せ』だ。これをどう解釈しろと?誰が、なぜ、こんな衒学ペダンティック茶番ドラマに乗るんですか」

天津川が静かに口を開いた。

「茶番ではないわ、室田刑事。彼女の退屈は、『この世界に論理的未曽有は存在しない』という絶望から来ている。あなたが追う六人の容疑者たちは、全員、その退屈それを知っている。彼らは、殺人を犯す動機モチベーションではなく、『完璧な形式を完成させる美学』という、より高次の目的テロスに従ったのよ」

彼女は、紅茶を一口啜った。

「あなた方の警察の形式論では、動機は**『金銭』か『愛憎』の二元論でしか演算できない。だが、翡翠は『知性による挑戦』という、第三の動機をこの事件に挿入した。……そうね、あなたの報告を続けなさい。その陳腐ちんぷ情報インフォメーション観測かんそくしないと、本質エッセンス抽出ちゅうしゅつできない」

室田は、ジャックの諦念と、天津川の傲慢な要求に挟まれ、さらに苛立ちながらも、事件資料を広げ直した。

「被害者、非武川翡翠ひすいは、一ヶ月ほど前から屋敷の人間たちに繰り返し**『宣言』**をしていた。『この世界にある論理はすべて陳腐で退屈だ。私の知性を超える者がいるなら、私を完璧に殺してみせよ。この一ヶ月の内に……』と。狂気の沙汰だ」

彼は、部屋の中央で発見された翡翠の死体写真したいしゃしんを突き出す。白い部屋、完璧かんぺきな密室。そして、死体が微かにかべていた微かな、超越的ちょうえつてき微笑びしょう

「そして、その挑戦状ちょうせんじょうに応じた者が、六人いる。非武川家の莫大ばくだい資産しさんを巡る六人の容疑者たちだ。……ですが、死因しいん特定とくてい難航なんこうしています。外傷は皆無。微量の毒物の痕跡は見つかりましたが、それが直接的な死因というには論理的ろんりてきに弱すぎる。上層部は**『儀式的な呪殺』と結論付けたがっている。この状況自体が不完全ふかんぜんすぎる。この異様さこそが、単なるミスリード《誤誘導》だとうったえているんです」

天津川は、その全貌ぜんぼうを聞き終えると、カップの珈琲を静かに飲み干し、無関係むかんけい講釈こうしゃくを始めた。

「美しい。実にグノーシスてきな傲慢さ《ごうまんさ》だわ。…ところで、非武川家は、メソポタミア起源のジオマンシー《土占術》に傾倒していたという無駄な情報むだなじょうほうをあなたは知っているかしら?あの白い独房は、単なる部屋ではない。それは、地脈ジオラインの上に築かれた、『論理的結界』のプロトタイプ《ひな-がた》よ。あなたが単なるミスリードと考える五芒星の図形は、悪魔を呼ぶ『シジル』の形式ではない。それは、翡翠が求めた『ユークリッド幾何学』の基本図形をした、論理ロゴス泥沼化どろぬまかさせるための、陳腐ちんぷ視覚的記号イコンにすぎない」

彼女は、椅子の肘掛ひじか-けに置かれた、自らのレースの手袋てぶくろ視線しせんを移す。

「室田刑事。これは殺人事件ではない。これは形式論的挑戦シニフィアン・ゲームよ。私たちは、誰が彼女を殺したか、ではない。『誰の論理』が、この形式的挑戦けいしきてきちょうせんに応答し、『殺人の形式』を完成させたか、を解読かいどくしなくてはならない。論理ロゴスが、いかにして退屈たいくつな世界をやぶるか。……さあ、講釈は終わり」

天津川は、肘掛け椅子から微動だにせず、カップをカウンターに置いた。

「この**『最終傑作』を解読するには、あなた方の陳腐な警察の形式ルーティンではなく、完璧な準備ぎしきが必要よ。今から夜通し、この形式的挑戦シニフィアン・ゲーム記号サインを解析する。あなたもここで待ちなさい、室田刑事。あの傲慢ごうまん令嬢れいじょう最終傑作オーヴァー・クリエーションを、直接見学するのは明日あしたでいいわ」

天津川はそう言って、再び資料に視線を落とした。その過剰かじょう装飾そうしょくされた衣装は、まるで夜の闇の中で咲く、一輪の完璧かんぺきな毒の花のようだった。室田は、彼女に引きずられる形で再び形式論アナザードメイン戦場せんじょうへときずりもどされることを悟りながら、れた外套がいとうを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。

このBAR**「ラポーズ」での『休止』こそが、事件解決の最初の儀式イニシエーションだと、彼は本能的に理解した。

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