第8話 夜の街
バルコニーで電話する玲子。
「大丈夫よ、母さん、心配いらないから…」
電話の相手は母親だった。
築浅のマンション。その一室に、佐原玲子の実家はある。それまでは戦後に建てられた古い一軒家に住んでいたのだが、経年劣化であちこちにガタがきていたこともあり、議員になった玲子が自分の給料から金を貯めて、母のために借り上げたマンションだった。居間で一人、母の静江が玲子と通話している。
「ナイフで襲われたって聞いて、お母さん、心臓が止まるかと思ったわよ」
電話の向こうの玲子の声は、落ち着き払っている。
「ほんとに大丈夫だから…」
「……玲子がそう言うなら……」
少しの沈黙が流れる。
「玲子、変なことだけはしないでね……」
「……わかってる」
電話を終える。不安げな表情を浮かべる静江。家の中には仏壇がある。そこには夫の写真が置かれている。写真の前に座る静江。
「お父さん、今日も寒いねえ……。玲子が襲われたんだって。ケガはなかったみたいだけど、玲子を守ってあげてね……」
◆
葵は一人で夜の街を歩いていた。
仕事を終えて家路に着く道中はいつもホッとするが、佐原玲子の事件を担当するようになってからは何か心につっかえたようなものを感じている。
そんなわけで一人で飲みに繁華街にやってきたわけだが、やはり女の一人飲みというのはかなり勇気がいる。
前から行ってみたかった焼き鳥屋の前を何往復もするが、なかなか店に入る勇気がない。
そんな葵に声をかけてきた若い男。
お姉さん、何してるの?一人?などと気安く話しかけてくるが、ナンパは昔からお断りだ。
結構ですぅとやんわり断るが、その男はとても饒舌で、どういう話の流れか、何時間働けばいくら入るといった話をしてきた。
スカウトマンかよ!
スカウトマンとか尚更お断りだ。
ダッシュしてその場を離れる葵。
しゃーない、もうこうなったら、コンビニでお酒買って大人しく家で飲むかぁと思い、駅に引き返そうとした瞬間、女の叫び声とともに、ものすごい物音が当たり一面に鳴り響く。
ビックリして振り返ると、ガラの悪そうな男が左の頬を抑えて地面に跪いている。
飲み屋から出てきた男が倒れている男の胸ぐらを掴んで無理やり起こそうとする。
警察官の性か、それとも生まれ持った正義感からなのか、気がつくと葵は考えるよりも前にその男のところへ駆けつけていた。
「やめなさい!」
胸ぐらを掴んでいる男の動きが止まる。
「警察です!その手を離しなさい!」
言われた通り、男から手を離す。殴られたと見られるそのガラの悪い男は胸を押さえて咳き込んでしまう。
「大丈夫ですか?」
そう言って葵はショルダーバッグから手錠を取り出そうとするが、仕事帰りなので、手錠は持っていなかった。
慌てて手錠の代わりになりそうなものを探していると、加害者の男が葵の方を振り返る。
「何やってんだよ、早く逮捕しないと逃げられちまうだろ」
その声に反応して顔を上げると、ガラの悪い男を殴り飛ばし、胸ぐらを掴んでいたのは田上だった。
「田上……さん?」
「何やってんだよ、お前」
「ちょっと!田上さんこそ何やってるんですか!」
「俺?俺はその、あれだ」
「あれって何ですか?」
と葵が言うと、ガラの悪い男が口を開く。
「田上さん、すいません」
「すいませんじゃねえよ、お前、更生するんじゃなかったのかよ」
「更生するつもりだけど…」
「だけどじゃねえだろ!」
そう言って男の頭を叩く。呆気に取られて言葉を失っている葵に、田上が言う。
「いや、こいつな、前にオレオレ詐欺で逮捕した奴なんだよ」
恥ずかしそうにペコリと頭を下げる男。
「はあ…」
「五年前か、なあ?」
「はい……」
と男。
「ちゃんと更生して出所したら真面目に働くって約束したんだけどな、こんなボッタクリバーで働いてるとは……」
「ボッタクリじゃないですよ!ちょっと、他の店より高いってだけで」
「こんなチンケな店で三十万もするかよ、銀座の高級クラブでもあるまいし」
店から出て成り行きを見守っているボッタクリバーの関係者たち。
どいつもこいつもガラが悪い。
「お前らもな、パクられたくなかったらこんな商売やめろ、一ヶ月経っても続けてたら、叩き潰すぞ」
大人しく全員頷く。
「お前もだ!」
と言って、更生を約束したという男の胸ぐらを掴む。
「こんなとこ、さっさとやめて、ちゃんと真面目に働けや。仕事が見つからないなら、俺が紹介してやるから」
「は、はい……」
首を傾げる葵。
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