第6話

 時間が、歪んで引き伸ばされるような感覚。

 月見里みのりが放った言葉——『あなた、もしかして。『冬夜』さん、ですか?』——は、音としての意味をなさず、ただ鋭利な刃物となって岩倉結城の鼓膜を突き刺した。


 返事は、できなかった。

 肯定も、否定も、沈黙さえも、ここでは意味を持たない。結城に残された選択肢は、ただ一つ。

 逃げることだけだった。


 結城は、背後で誰かが息を呑む音を聞きながら、乱暴にドアノブを捻って廊下へと転がり出た。そのまま、もつれる足で、ひたすらに走った。なぜ走るのかも、どこへ向かうのかも分からない。ただ、あの部屋から、あの三つの視線から、一秒でも早く遠ざかりたかった。


 バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。

 残された部室には、重い沈黙が降りていた。


「…………え?」


 最初にそれを破ったのは、春下静香の呆然とした声だった。


「え、うそ、今の……冬夜って……あの、『小さな世界の大きな一歩』の!? あの伝説の!?」

「落ち着け、春下。まだそうと決まったわけじゃ……」


 冷静さを促そうとする神崎零だったが、その声もわずかに上ずっていた。だが、月見里みのりは、閉ざされた扉を静かに見つめたまま、確信に満ちた声で言った。


「間違いない。あの人の文章には、魂のグルーヴがある。そして、今の彼の逃げ方が、その何よりの証拠」


 みのりは、そこで初めて二人の顔を見て、静かに、しかし熱のこもった瞳で語り始めた。


「私がアニメーターになろうって決めたのは、中学生の時。『小さな世界の大きな一歩』を読んだのがきっかけだった。あの小説は、ただの文字じゃなかった。キャラクターの息遣いが、心の震えが、風景の色や匂いまでが、ありありと目に浮かんだ。文字だけで、ここまで世界を『動かせる』んだって、衝撃を受けた。私の原点は、あの人の物語なの」


 みのりの告白に、静香と零は息を呑む。

 三人の間に、一つの共通認識が生まれていた。

 岩倉結城は、ただの読書好きの青年ではない。自分たちが焦がれ、嫉妬し、そして何よりも尊敬した、あの場所に立っていた天才その人なのだ、と。


「……どうする?」


 零が、短く問うた。


「このまま、逃がすのか?」


 その問いに、静香が勢いよく顔を上げた。


「逃がすわけないよ! あんな才能、埋もれさせちゃダメだよ、絶対!」

「同感。私たちは、宝の地図を見つけてしまったんだから」


 みのりも、力強く頷く。

 三人の視線が、自然と絡み合った。目指すべき場所は、ただ一つ。


「……作戦会議だ」


 零のその一言で、同人創作サークルの、史上最大のプロジェクトが始動した。




 その日の夕方。

 結城は、灰色の自室で、ただベッドに蹲っていた。

 終わった。何もかも。必死に守ってきた平穏は、脆くも崩れ去った。明日から、どんな顔をして大学へ行けばいい? あの三人と、どう顔を合わせればいい?


 考えれば考えるほど、思考は沼に沈んでいく。いっそ、このまま大学を辞めてしまおうか。そんな考えまで頭をよぎった、その時だった。


 ピンポーン、と無機質なチャイムが、静寂を破った。

 居留守を使おうと、息を殺す。だが、チャイムは鳴りやまない。それどころか、ドンドン、と遠慮のないノックまで加わった。


「岩倉君! いるんでしょ、開けて!」


 春下静香の声。

 結城は、観念して震える手でドアを開けた。そこに立っていたのは、静香だけではなかった。気まずそうに視線を逸らす零と、真っ直ぐにこちらを見つめるみのりも一緒だった。


 部屋に招き入れると、三人は無言で結城を取り囲むように座った。まるで、罪人を裁くための法廷のようだった。


「……何の用ですか」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。

 それに答えたのは、静香だった。彼女は、まっすぐな目で結城を見つめ、言った。


「お願い、岩倉君。私たちの物語を、書いて」

「……断る、と言ったはずです」

「どうして!? あなたには、書ける力があるのに!」


 その言葉が、結城の中で何かの栓を抜いた。

 顔を覆う。視界が、滲んで歪む。抑えていた感情が、嗚咽となって喉から溢れ出た。


「——もう、書きたくないんだ……!」


 子供のように、結城は泣き崩れた。

 怖いのだ。書くことが。自分の内側を抉り、魂を削り、言葉を紡ぎ出すあの作業が。読者の期待という重圧が。そして何より、一条櫻という本物の天才の輝きが。

 その無様な姿を、しかし、三人は冷めた目で見なかった。

 静香が、泣きじゃくる結城の隣に座り、熱を込めて語りかけた。


「私はね、『小さな世界の大きな一歩』のヒロインが大好きだった! 彼女が笑うだけで嬉しくて、彼女が泣くと本気で胸が痛んだ! あんなに魅力的な子を、私は他に知らない! あなたの書くキャラクターは、生きてるんだよ!」


 続いて、零が、少しだけ照れくさそうに、しかし真剣な口調で言った。


「……あんたの物語は、構成が異常なまでに完璧だ。伏線の張り方、回収の仕方、どれもが計算され尽くしてる。読んでて腹が立つくらいに。だが、それ以上に……美しい。私は、あんたの物語の『構造』に惚れたんだ」


 そして最後に、みのりが、結城の涙を拭うように、静かな、しかし一番強い言葉を紡いだ。


「あなたの言葉が、私の世界に色をくれた。あなたは、私の神様なんだよ、冬夜さん」


 三つの、あまりにも純粋で、あまりにも熱い想い。


 それは、結城が筆を折るきっかけとなった「才能への絶望」とは、まったく違う種類の光だった。


 結城は、ただ泣きじゃくることしかできなかった。


 殺されたはずの作家の魂が、三つの太陽に照らされて、わずかに震えた気がした。

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