カンゲキ

青瀬凛

第1話

 食い散らかした。夢も、希望も。何もかも。

 全てをなげうってでも、この世界に存在したかった。出来れば、輝きたかった。

 しかし、現実はそう甘くない。

 才能あふれる周囲の人間は既に成果を上げていて、自分の何歩、何十歩、何百歩も先を行っている。己の様な状況の者は珍しいわけではないはずだった。だが、どうにもそうは思えない。世界で自分だけが取り残されているような、そんな気さえしてくる。

 それでも、諦めきれない。諦めたくない。まだ、まだ数年じゃないか、始まってから。

 今日も己に言い聞かせて、家のドアを開け、一歩踏み出す。目的地に向かって。


「それでは台本読みを始めまーす!」

「よろしくお願いしまーす!」

 今日も今日とて舞台の稽古である。そう、俺は一介の舞台人……。などと格好つけてみたが、要は売れない舞台俳優である。

 養成所を卒業し、俳優を始めてから五年。鳴かず飛ばずだった。大きな役は与えられず、端役ばかり。それでも、全く仕事がないわけではないので、運の良い方ではあるのだと思う。

 けれども、早い者では初舞台で主演に抜擢された奴もいるのだ。主演なんて、夢のまた夢な自分にとっては、そんな奴が大層眩しく見える。目が痛い位だ。

 いけない、いけない。そんなことを考えている場合ではない。今やれることをやらなければ。

 かぶりを振って、台本に集中する。

 自分の番が来る度、少ない台詞を声に出す。淡々と進むそれに流されるように付いて行った。これで良い、これで良いんだ。今は、これで。


「それでは、お疲れさまでしたー!」

「ありがとうございましたー!」

 台本読みが終わった。今日の稽古はこれだけである。

 ふう、と息を吐く。この後はアルバイトだ。今、俺は家の最寄り駅の辺りにあるカフェで店員をしている。所属する劇団のチケットノルマもあるから、なるべく稼いでおきたかったのだ。小さな劇団だから、余ったチケットを自腹で買い取り、なんてことが起こらないとも限らないからだ。

 荷物を纏めて帰ろうとしたその時。

「お疲れ様でーす」

 声を掛けてきた人物がいた。この舞台の主演俳優だった。

「あ、お疲れ様です……」

 軽く会釈しながら返すと、彼は笑って続けた。

「この後さ、行ける人集めて飲みに行こうと思ってるんだけど、一緒にどう? 稽古始まって間もないからさ、まあ、親睦会みたいなもんだよ」

 屈託のない笑顔だ。

「すみません。俺、この後バイトが入ってて……」

 申し訳なく思いながら答える。

「あー! そうなんだ! それは残念。それじゃ、今度また来てよ。バイト頑張って」

 彼は何でもないように手をひらひらと振って、そう言った。

「ありがとうございます。では、お先に失礼します」

 また軽く頭を下げて、稽古場を後にする。何とも言えない、モヤモヤした気持ちだった。

 彼は主演を張る程の人気俳優だ。勿論アルバイトなどしていないのだろう。俺より、二、三歳年上だったか。デビュー当時から注目の的だったらしい。俺とは大違いだ。

 ついつい自分と比較してしまう。そんな己が嫌だった。だけど一度走り出した思考は止まらない。鉛を飲み込んだような気分のまま、職場に向かって歩き出す。


「いらっしゃいませー」

「すみませーん。注文お願いしまーす」

「はーい。少々お待ちくださーい」

 稽古の後の仕事は、やはり疲労が溜まる。だが、致し方ない。いつもの通り、注文を捌き、料理を運び、テーブルを拭く。それを繰り返す。

 代わり映えしない日々。世界が色褪せて見える。一体何時から、こんな風に思うようになってしまったのだろう。

 黙々と仕事を熟していく。舞台に立つ位だから、人と接することは好きだった。だから基本的にこの仕事はそんなに苦ではない。偶にはクレーム対応など、嫌な事も起こったけれども。

 そうして数時間のシフトに入り、漸く閉店の時間になった。

「お疲れ様でしたー」

「お疲れ様です」

 稽古の時のように挨拶をして、帰宅する。

 今日も何でもない一日だった。主演のあの人がより一層輝いて見えたこと以外は。


 それから同じような日々を過ごした。稽古して、バイトして、稽古して、バイトして。

 稽古の方はどんどん進み、あと数日で本番というところまで来た。

 今日は衣装無しの通し稽古だ。

「それでは通しを始めまーす」

「よろしくお願いしまーす」

 稽古が始まった。衣装は無いが、スタジオには舞台セットがきちんと組まれている。ここに足を踏み入れたら、もう其処は上演する舞台と同じ場所に変わる。

 主演が出てきた。その瞬間、その場の雰囲気が変わった。

 何でもない黒のTシャツに、同じような黒のジャージのズボン。そう、衣装を身に着けていないのに、まるで錦を纏ったかのように輝いて見える。彼が動き、台詞を発する度、空気が震える。

 これが経験の差なのか、天賦の才なのか。

 敵わない何かを感じて、へたり込みそうになる。

 自分の番はまだ後だ。数回出るだけの、たったそれだけの出番。其処で自分を表現しなければならない。今後のために、輝かなくてはならない。けれど、本当に、出来るのだろうか。

 今更ながら、怖気づいてしまった。本当にこの道で良かったのだろうか。

 もっと、違う何かが出来たのではないか。多くの人がなるような会社員などになって、地道に頑張った方が良かったのではないだろうか。きっと大変だけれども、今の様な空虚な気持ちにはならずに済んだかもしれない。

 泣きそうになった。ぐっと堪える。今は稽古中だ。集中せねば。

 声が震えそうになりながら、何とか役を演じる。無事に終了した時には、崩れ落ちそうになってしまった。

「お疲れ様でしたー」

 稽古が終わった。今日もこの後また仕事だ。早く出ようと靴を履いたその時。何時かの様に、主演の彼が話し掛けてきた。

「お疲れ様!」

「お疲れ様です」

 彼は少し眉を顰めていた。どうしたのだろう。

「あのー、今日さ……」

「はい?」

 また飲み会だろうか。それにしては空気が重い。

「何か、あー、余計な事だったら悪いんだけども」

「……何でしょう?」

「あー、緊張してた? いや、ちょっとさ、様子がいつもと違うかなぁと思ってさ」

「あ、まあ、ちょっと、いろいろ。本番も近いですし……」

 思わぬ言葉にしどろもどろになって答える。

「あのさ、アドバイスってわけじゃないけど……。もう少し、力抜いても大丈夫だよ。君は良いもの持ってるからさ」

「え……」

 呆然とする。そんな言葉を掛けられるなんて。

「あー、えーと、それだけ。ごめん、呼び止めて。じゃ、また次の稽古で」

「あ、はい、ありがとうございました……」

 稽古場を先に出て行く彼の後ろ姿を見送って、俺は暫く立ち竦んでいた。

 上手く隠せていたつもりだったが、他人から見て分かる程だったのか。そして、それを気に掛けてくれるなんて、主演はやっぱり違う。持っているものが違う。彼は良い物を作ろうとしているのだ。己のことで手一杯である自分とは違って。

 気遣われた嬉しさと同時に、彼の様にはなれないことを悟った哀しさで息が出来なくなった。

 敵わない、敵わない、敵わない……。


 そして遂に本番の日になった。

 衣装に着替え、メイクをする。呼吸を整える。

 幕が、開く。

 練習の時と同様、主演の彼が場の空気を塗り替えていく。目を細めそうになるような輝きを放つ彼。観客の誰もが彼に魅了されているように見えた。

 緩急を付けて進んで行く舞台。自分の出番はもうすぐだ。

 主演が舞台に背を向けた。今だ。

「おーい!」

 台詞を叫びながら、照明に照らされた舞台へ躍り出る。

 今、この瞬間は何も気にしてなんかいられない。自分は舞台の上の世界の住人なのだ。

 そのまま恙無く舞台は上演され、幕を閉じた。

 カーテンコールを済ませると、手拍子が聞こえる。ダブルカーテンコールの合図だ。

 主演と他の数人がもう一度ライトの下へ出て行く。

 舞台袖でそれをちらと眺めて、楽屋へ向かった。


 今回の舞台は上演後にキャストとの写真撮影会がある。追加料金が掛かるが、観客が希望する役者と一緒にツーショット写真が撮れる、というものだ。

 こういう時、自分の所には殆ど人が来ない。分かっている。

 見ると、主演の所には長蛇の列が出来ていた。流石だ……。

 今日も暇かな……。そう思っていると、一人の女性が此方にやって来るのが見えた。

 俺の目の前で立ち止まる。クリーム色の上着に、淡いピンクのビロード風のロングスカート姿。優し気な雰囲気の人だったが、彼女の手は震えていた。

「あ、あの、お写真、お願いしますっ」

「え、あ、はい。どうぞ」

 舞台上で彼女と並ぶ。手の震えがずっと続いているのが見えた。そんなに緊張しているのか。

「あ、ありがとうございました……!」

 彼女が深くお辞儀する。そして続けた。

「あ、あのっ。貴方の演技にとても感動しましたっ」

「あっ……」

「とても自然なのに印象的で……。舞台観劇は初めてだったんですけれど、来て良かったです。あと、あと、笑顔がとても素敵ですね!」

「えっと、あの、ありがとうございます」

 彼女は何とか言葉を紡ごうと足掻いているようだった。詰まりながらも懸命に伝えてくる。

「遠くからですが、これから応援させていただきたいと思いますので……っ! あの、ほ、本当にありがとうございました……!」

「いえ、こちらこそ、来てくださってありがとうございました……!」

 もう一度ぺこりと頭を下げ、彼女は足早に去って行った。

 あんなに言葉を貰えたのは、初めてだった。たった一人。たった一人かもしれないが、自分の演技で誰かを感激させることが出来たのだ。

 その事実に改めて気づいて、顔に熱が集まるのを感じた。

 忘れていた。こんな感覚。自分は何故あんなにも注目されることに拘っていたのだろう。

 演劇が好き。ただそれだけで良かったのに。

 端役であったとしても良いのだ。もっと大切にしよう。

 自然と涙が溢れてきた。嬉しい涙だった。

 ふと顔を上げると、まだ観客の相手をしている主演の彼が此方を向いていた。そして、俺の顔を見て瞠目した後、にこりと笑った。良かったな、と言われているようだった。

 彼に頭を下げる。心から、感謝を込めて。

 そして、もう姿の見えなくなった彼女のことを思いながら、客席を見つめた。

 誰もが笑顔だった。俺らが作り上げた舞台で、誰もが笑っているのだ。

 すうっと深呼吸をする。劇場のざわめきが耳に心地良い。

 嗚呼、初日が終わる。

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カンゲキ 青瀬凛 @Rin_Aose

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