声から始まる恋愛小説
@NAS_SHIO
第1話
ホームに立って、電車を待っている。
平日の夜、時計は十九時を少し回っている。帰宅ラッシュの山は越えつつあるが、人が少ないわけでもない。照明に照らされたホームは白く、線路の向こうは闇に沈んでいた。
白いシャツにスラックス。特別きちんとしているわけでもないが、事務職らしい無難な格好で、スマホを眺めている。通知はない。別に誰かを待っているわけでもない。ただ、いつも通りの時間に、いつも通りの電車に乗るだけだ。
それなのに、なぜか今日は、暗い線路の先を何度も見てしまう。
理由はわからない。胸が高鳴るわけでも、不安があるわけでもない。ただ、何かを待っているような感覚だけが、静かにそこにあった。
アナウンスが流れ、ほどなくして電車がホームに滑り込んでくる。
金属が擦れる音と、風圧。闇を割るようにして車体が止まり、扉の前に人が集まる。彼もその流れに混じった。
車内に入る。三駅先で降りることはわかっている。
奥へは行かず、ドア脇の空いた場所を選ぶ。つり革に手を伸ばすほどでもなく、出入りの邪魔にならない位置。短い乗車には、それがいちばん楽だった。
体を少しだけずらして立つと、電車が動き出す。
窓に映った自分の顔が、ふと目に入る。
車内灯に照らされた顔は、昼間よりも影が濃く、思っていたより疲れて見えた。目の奥に張りついた何かが、そのまま残っている。理由ははっきりしないのに、胸の奥が少しだけ沈む。
視線を外して、窓の外へ逃がす。外はほとんど暗く、街灯や遠くの明かりだけが、線になって流れていく。
その流れに引きずられるように、意識が少しだけ過去へ向かう。
どうして、こんな場所に立っているのか。どうして、こんな時間に、こんな顔をしているのか。はっきりしたきっかけは思い出せない。ただ、選ばなかった道と、選べなかった理由だけが、断片的に浮かんでくる。
深く考えるほどのことじゃない。そう言い聞かせながらも、胸の奥に溜まったものは消えなかった。
小さく息を吐く。窓に白く残ったそれが、すぐに消えていった。
やがて減速し、車内にブレーキの音が広がる。聞き慣れた駅名がアナウンスされ、電車が止まった。
人の流れに乗って降りる。三駅分の時間は短く、考え事を終わらせるには足りなかった。
改札を抜けると、夜の空気が少しだけ重く感じられる。駅前は明るいが、どこか落ち着かない。
そのまま、いつものコンビニに入った。
弁当の棚の前で立ち止まる。どれも似たようなものに見えて、少し迷ってから、一番無難そうなものを手に取る。温めますか、と聞かれて、お願いします、と答えた。
コンビニを出て、駅から十分ほど歩く。
線路から少し離れた場所に、古びたアパートがある。二階建ての、真ん中の部屋。外壁は色が抜け、階段の鉄はところどころ錆びている。
家賃は五万五千円。広さは一Kで、決して快適とは言えないが、文句を言うほどでもない。
鍵を開け、靴を脱いで中に入る。壁際にぶら下がった紐を引くと、天井の照明が遅れて点いた。見慣れた部屋が、そのままの姿で現れる。
靴下のまま畳を踏み、窓の前まで行ってガラスを引く。夜の空気が入り込み、こもっていた匂いが少しだけ薄まった。
外は静かで、遠くを走る車の音がかすかに届く。
窓を半分ほど開けたまま、畳に腰を下ろす。低いテーブルの上に、コンビニの弁当を置いた。
そこで一度、手が止まる。
箸がない。ついでに、冷蔵庫にあったはずの発泡酒のことを思い出す。
小さく息を吐いて、少しだけ面倒くさそうに立ち上がった。
キッチンから戻り、箸をパシッとテーブルに置く。続けて、発泡酒のプルタブを起こした。乾いた音が部屋に残る。
一口飲む。冷たさが喉を通り、肩の力が少しだけ抜けた。
短く息を吐く。さっきまでの重さが、ほんのわずか薄まった気がした。
大学に通っていた頃のことを、なぜか思い出した。
朝が早いわけでもなく、夜が特別遅いわけでもない生活。講義の合間に時間を潰し、理由もなく集まって、くだらない話をしていた。
あの頃は、今よりも先のことを、あまり考えていなかった気がする。
夢とか目標とか、そういう言葉に、少し距離を感じていた。
ぱっとしない人生を、今も続けている。
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