冬の街灯と、帰る場所
酸菜
第1話 離婚
あの冬の夜、コンビニの前で君に「おかえり」と言われなければ、
私はきっと、どこにも帰れないままだった。
——これは、東京のはずれで小さな「帰る場所」を拾った、二人の物語。
———————————————————
「クソッーー!」
李星光(リー・シングアン)は天井を仰いで、ビールをぐいっと一気に流し込んだ。
冷たい液体が喉を滑り落ちていくのに、こたつの熱は彼女の顔を真っ赤に焼いてくる。
熱気とアルコールが混ざり合って、彼女の全身を小さな鍋の中に閉じ込めたみたいに、じんじんと蒸し上げていた。
夫の浮気が発覚して、その日のうちに高級マンションから逃げるように荷物をまとめて出てきた。
幸い、日本に来たばかりの頃に住んでいた古いアパートの大家・山田おばあちゃんとは、まだ連絡がついた。
部屋は床一面が畳で、昔ながらの造り。かわいそうに思ったのか、おばあちゃんは古くなったこたつを一台、貸してくれた。
今の彼女は、まるで最後のプライドにしがみつくみたいに、そのこたつの端っこに縮こまっている。
そのわずかなぬくもりと、数本の安い缶ビールだけを頼りに、ぐつぐつ煮えた感情を外へ吐き出していた。
「ぐるっと一周回って、結局離婚かよ……。はあ、もう実家帰りたい……。
私ほんとダメ、人生サバイバル失格だわ……!」
テーブルの上でスマホが震え、「ピロン」と小さな音を立てて画面が光る。
ちらっと視線を向けると、送信者は元夫だった。
星ちゃん、今まで本当にありがとう。これからも頑張ってね。
「……なにその建前だけのメッセージ。」
李星光は思い切り目をひっくり返し、指を素早く動かして「こちらこそ~」系のスタンプをぴっと送る。
礼儀は返しておく。
感情は、もう返さない。
送信完了の緑色の吹き出しがトーク画面の一番下に並ぶ。
彼女はそれを数秒じっと見つめてから、急に目の奥がじわっと熱くなった。
そのまま畳にごろんと倒れ込み、缶をぽいっと横に放り投げ、身体ごとこたつの中へ転がり込む。
天井には、黄色く染みになった水跡がひとつ。
ぐしゃぐしゃに丸められた雲みたいな形をしていた。
――話は少しさかのぼる。
李星光、二十六歳。日本に来て、四年目。
中国にいた頃、彼女と元夫は大学の近くで出会った。
当時の彼は、交換留学で中国に来ていた日本人留学生。
笑うときはまっすぐで、真面目そうで、片言の中国語で「我喜欢你(君が好きだ)」と言ってくるような男だった。
そのときの彼女は、勢いでその言葉を信じてしまったのだ。
実家は裕福とは言えず、母親の体もあまり強くない。
だから彼女は、早くお金を稼いで、チャンスがあるなら海外で働きたい――ずっとそう考えていた。
そんな時、彼が言ったのだ。
「じゃあ、一緒に日本に行こう。僕が君を守るから。」
それで、彼女は本当に彼について日本へ来てしまった。
ほどなくして婚姻届を出し、エレベーター付き、オートロック付き、宅配ボックスまであるあの高級マンションへと引っ越した。
あれが、新しい人生の始まりだと、彼女は本気で信じていた。
しかし二年後、彼女の手元に残ったものは――離婚と、ほとんど何もない生活だけだった。
リビングのソファでさえ、「あれは俺がひとりで買ったものだから」と言われ、持ち出すことを許されなかった。
「昔はあんなに、私のこと抱きしめて『好きだ』って、
『ずっと一緒にいたい』って言ってたのに……。」
ぼんやりと独り言をこぼしながら、鼻の奥がつんと痛くなる。
気づけば、涙が目尻からつーっと滑り落ち、枕の端をしっとりと濡らしていた。
「うう……。実家に帰りたいよ……。ママ……。」
こたつの中では熱がこもって、空気がゆらゆら揺れている。
彼女の声はだんだん小さくなり、最後にはかすかなすすり泣きだけが残った。
空になったビール缶が、彼女の手のそばで静かに転がっている。
窓の外では、古いガラスを冬の風が叩き、かすかな軋む音を立てた。
目を細め、涙を流しながら――
李星光は、ぬるくて少し湿った空気の中で、そのままぼんやりと眠りに落ちていった。
その夜、部屋の窓の外でにじんでいたコンビニの灯りが、
これから先の李星光の人生を、もう一度動かし始めるなんて――
まだ、何も知らなかった
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