セーブポイントの聖女は、勇者の「死に癖」を許さない

ジョウジ

第1話:英雄の孤独な完璧主義

 ​私の世界が、また「瞬き」をした。


 ​脳髄をやすりで削られるような、ザラついたノイズ。


 視界が白くハレーションを起こし、平衡感覚がぐらりと揺らぐ。


 直後、鼓膜を震わせたのは、魔獣の咆哮ではなく勝利のファンファーレだった。


 ​「――そこだ」


 ​凛とした声が響く。


 薄目を開けた私の前で、白銀の剣閃が闇を切り裂いていた。


 難攻不落と謳われた「嘆きの迷宮」最深部。巣食う合成魔獣キマイラが、断末魔を上げる暇もなく崩れ落ちていく。


 ​私の目は、その完璧すぎる「演舞」を捉えていた。獅子の顎が迫れば、未来が見えているかのように首を傾け、毒蛇の尾がしなれば、届く前に死角へ踏み込む。


 初見のはずの魔獣の動きを、彼は読み飽きた台本のように捌いてみせた。


 ​「すごい……! 無傷だなんて!」


「さすがカイルだ、俺たちの出番がないぜ」


 ​戦士と魔法使いが歓喜の声を上げる。


 勇者カイルは汚れ一つない白銀の鎧を煌めかせ、爽やかに微笑んで剣を納めた。


 ​「運が良かっただけだよ。みんなが無事でよかった」


 ​春の日差しのように眩しい笑顔。


 けれど、私だけは、その場から動けずにいた。


 ​(……嘘つき)


 ​私の網膜には、二重写しの光景がこびりついている。


 現実の綺麗なカイルの上に、半透明のグロテスクな残像が重なって揺れていた。


 ​――それは、キマイラの毒針を全身に浴び、ドロドロに溶けて崩れ落ちるカイルの姿。


 ​皮膚がただれ落ち、眼球が白濁してこぼれる。喉からは絶叫の代わりに、ブクブクと赤い泡が吹いていた。


 肉が焦げる異臭と、断末魔の湿った音が、私の感覚にへばりついて離れない。


 ​ズキリ、とこめかみに激痛が走る。これは「記憶」だ。


 カイルが「死に戻り」を発動して消滅させた、失敗した時間の記憶。その副作用が、彼と魂のパスで繋がった「聖女」である私の脳にだけ、汚泥のように逆流してくる。


 ​彼は一度、あそこで無惨に死んだのだ。


 そして「失敗」をなかったことにするため時間を巻き戻し、今度は完璧な回避ルートを選んだ。


 ​「エリス? 顔色が悪いよ」


 ​カイルが心配そうに歩み寄ってくる。


 その美しい顔を見た瞬間、私は思わず後ずさりそうになった。


 今の彼は、さっき私が幻視した「溶けた死体」と全く同じ角度で、同じ笑顔を浮かべている。


 ​「……ううん、平気。少し、魔力酔いしただけ」


「そうか。無理しないでね。君が倒れたら、僕は悲しくて生きていけない」


 ​純度百パーセントの善意。時間をリセットした自覚すらない、無垢な瞳。


 私は胃の腑が凍るような寒気を感じながら、震える手で聖杖を握りしめた。


 ​◇


 ​その夜、迷宮都市の宿屋で祝杯を挙げていた。


 賑やかな喧騒の中で、私だけが食事の味を感じられずにいた。カイルを見るたびに脳裏にノイズが走り、スプーンを持つ手が震えそうになる。


 ​「お待たせしました、特製シチューです!」


 ​快活な給仕の少女が、大皿を載せたトレイを運んでくる。


 その時、少女の足が絨毯のほつれに引っかかり、身体が大きく前のめりになった。


 ​「あ――っ!」


 ​熱々のシチューが宙を舞う。


 カイルの純白のマントへ向かって、赤い液体が降り注ぐ――そう直感した瞬間。


 ​ヒュッ。


 ​風を切る音すらしなかった。


 私が瞬きをした次の瞬間には、カイルの手には、こぼれ落ちるはずだった皿が収まっていた。


 一滴もこぼさず。少女が転ぶよりも速く、まるで「そこに皿が来る」と知っていたかのような位置で。


 ​「っと、危ない。大丈夫かい?」


 ​少女は頬を染めてカイルを見上げる。仲間たちも口笛を吹いた。


 しかし、私の手からはフォークが滑り落ち、カチャンと乾いた音を立てた。


 ​(……嘘でしょ)


 ​心臓が早鐘を打つ。


 カイルの今の動き。皿の軌道を見ることなく、最初から手を差し出していた。


 そして、脳裏にまた、あの嫌なノイズが走る。


 一瞬だけフラッシュバックした映像――それは、シチューを頭から被り、マントを汚されて少しだけ眉をひそめるカイルの姿。


 ​彼は、死んだのだ。


 たかが、「シチューで服が汚れた」という不快感を消すためだけに。


 ​自分の喉を掻き切ったのか、心臓を突いたのかは分からない。けれど彼は、その命を「リセットボタン」のように軽く押して、数分前まで戻ってきた。


 完璧な食事のために。完璧な笑顔のために。


 ​吐き気がこみ上げ、私は口元を強く押さえた。


 目の前で朗らかに笑う英雄が、人の皮を被った別の生き物に見える。彼にとって「死」とは、瞬きをする程度の重さしかないのだ。


 ​逃げ出すように、私は宿のバルコニーに出た。


 夜風に当たりたかった。月が青白く輝いているけれど、その光さえ、今の私には冷たい刃物のように感じられる。


 ​「ここにいたんだね」


 ​背後から、聞きたくないほど優しい声がした。


 カイルが隣に並び、手すりに肘をついて月を見上げる。その横顔は、残酷なほどに美しい。


 ​「今日の月は綺麗だね。まるで、君の心みたいに澄んでいる」


「……カイル」


 ​私は手すりをきつく握りしめた。


 言わなければならない。


 あなたの「完璧」は、私の脳を削っているのだと。あなたが死ぬたびに、その死の苦痛が私に流れ込んでいるのだと。


 そして何より――そんな簡単に命を捨てないでほしいと。


 ​「カイル、あなたは……死に戻りを」


 ​――ガギィッ!


 ​言葉にしようとした瞬間、喉の奥で硬質な音が弾けた。


 声が出ない。


 気道の内側に、冷たい何かが急速に張り巡らされていく。見えない「青い氷の蔦(つた)」が声帯を締め上げ、真実を封じ込めていく。


 ​「――っ、ぐ、ぅ……っ!」


 ​呼吸ができず、私はその場にうずくまった。


 世界のシステムが、私に警告している。『観測者』は余計な口を利くな、と。


 ​「エリス!?」


 ​カイルが慌てて私の身体を支えた。


 彼は私の苦悶の表情を見て、痛ましそうに眉を寄せる。


 ​「ごめん、夜風が冷たすぎたかな。風邪をひいてしまった?」


「(ちがう、あなたのせいなの、カイル……!)」


 ​声にならない叫びは、喉元の氷に閉ざされて消えた。


 カイルは優しく私を抱きしめる。体温が伝わってくる。


 かつては愛しいと信じて疑わなかったその温もり。


 けれど今の私には、それが死体の冷たさを誤魔化すための、偽りの熱にしか思えない。


 ​「君には、いつも笑顔でいてほしいんだ」


 ​カイルが私の髪を撫でながら、陶酔したように呟く。


 ​「僕が、君の悲しむ要素をすべて取り除くから。痛みも、失敗も、不幸もない……そんな完璧な世界を、君にあげるよ」


 ​彼の善意が、狂気となって私の首を真綿で絞める。


 私はカイルの腕の中で、恐怖と絶望にガタガタと震えながら、ただ呼吸をすることだけに必死だった。


 私の脳裏には、またしてもノイズが走る。


 それは、明日の朝、宿を出発する際に馬車に轢かれるカイルの、「未来の死」の予兆だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る