恋と筆のあいだ
志水命言/ShisuiMicoto
プロローグ
大正十一年の初夏。
女学院の講堂に差し込む陽は、まだ若い教師・興津しのぶの横顔を淡く照らしていた。
黒髪はゆるく結われ、白襟の影が、頬の憂いをより深く見せる。
講義を終え、生徒たちを見送ったしのぶは、静けさの戻った教卓にもたれ、小さく息をついた。
「……あかん、今日もまた、やりすぎてしもたわ」
誰に聞かせるでもないつぶやきは、大阪訛りの柔らかさと、胸の奥の痛みを同時に帯びていた。
そこへ、コツリと靴音。
講堂の扉が開き、ふたりの人物が姿を見せた。
「興津(おきつ)先生、今日はお時間をいただいて恐縮です」
低い声で礼をしたのは、眠たげな目をした女。一雫の記者、増田立花(ますだ・りっか)。
その後ろから、やけに元気な男が顔をのぞかせた。
「いや〜やっと会えた!噂の才媛、興津しのぶ先生!一雫の編集で小説家の......」
「……増田歩夢(ますだ・あゆむ)さん、でしたか?」
しのぶは少しだけ口元を綻ばせた。
歩夢の目は、噂通りぎらぎらしている。立花とは対照的に、眩しいほどだった。
「そうそう!今日は立花が取材したいって聞かなくてさ。俺は助手みたいなもん!」
「興津先生は可愛いから特別扱いなのよ」
立花が淡々と言う。
その真顔にしのぶは困ったように笑った。
取材は穏やかに始まり、しのぶが研究を語るほどに立花の筆は進み、歩夢は何度も感嘆の声を洩らした。
だが、その帰り際......。
「そういえば興津先生」
歩夢が、まるで思いつきのように振り返った。
「今度、ぜひ紹介したい人がいるんだ。先生の文章を読んで、たぶん気に入ると思う。内山柳夜(うちやま・りゅうや)っていう、小説家で......」
その名を聞いた瞬間、立花の眠たげな瞳がわずかに光を帯びた。
「深淵を覗く男だよ。興津先生とは……面白い化学反応が起きるんじゃない?」
「え……?」
しのぶは目を瞬いた。
胸の奥を、ぞくりとした風が撫でていく。
自分でも理由のわからぬ予感が、そっと心臓をつかんだ。
壊れてしまう......。
自分が触れれば、何もかも。
だが、この日を境に、しのぶの淡々とした日常は音を立てて軋み始める。
それは、深淵よりも深い愛と、逃れられない宿命へ続く扉の音だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます