第3話​:桃花源への産道


​ 霧の晴れ間に見つけたのは、岩肌に穿たれた小さな亀裂だった。


 洞窟と呼ぶにはあまりに狭い。大地についた古傷のようでもあり、巨大な獣が獲物を飲み込む咽喉のどのようでもあった。黒々とした岩の裂け目からは、絶え間なく清冽な水が吐き出されている。


​ アルスはその前に膝をついた。


 全身の関節が錆びついたように重い。指先の感覚は凍えて麻痺し、泥にまみれた軍服は鉛のように身体に張り付いていた。


​ ごう、ごう、と風の音がする。


 いや、風ではない。それは穴の奥底から吹き上げてくる「気配」の奔流だった。


 鼻腔を突き抜けるのは、暴力的なまでに甘美な芳香だ。熟れた果実と、満開の花々を煮詰めたような匂い。それは背後に広がる死と腐敗の霧とは対極にある、濃厚な「生」のエネルギーそのものだった。


​(入れ、というのか)


​ アルスは亀裂の奥を睨んだ。光は届かない。どこまで続いているかも知れない。


 だが、背後の白い闇に留まれば、いずれ精神が摩耗し、あの幻覚の中に取り込まれて死ぬだけだ。


 選択肢などなかった。


​ アルスは肩にかけていた魔導ライフルを降ろした。


 銃床についた泥を親指で拭う。戦友の遺品であり、泥沼の戦場で彼の命を繋いできた鉄の塊。だが、この狭い穴を通るには邪魔だった。それに、本能が告げていた。この先に、鉄を持ち込めば拒絶される、と。


​ 彼はライフルを岩の上に置いた。


 カチリ、と硬い音がした。


 その小さな音は、霧の底の静寂に吸い込まれ、彼と戦争との縁が一つ、断ち切られたことを告げた。


​ アルスは冷たい流れの中に身を浸した。


 瞬間、皮膚が粟立つ。水温は低い。だが、芯に不思議な熱を含んでいる。


 彼は仰向けになり、頭からその闇の裂け目へと滑り込んだ。


​ 世界が、閉じた。


​ 狭い。


 想像を絶する圧迫感だった。


 岩盤が直に顔の前に迫り、胸郭を押し潰そうとする。両肩が岩壁に擦れ、軍服の布地が裂ける音が狭い空間に反響した。


​ 闇だ。


 完全な暗黒。視覚が奪われた分、聴覚と触覚が異常なまでに鋭敏になる。


 耳元で響く水音は、巨人の咀嚼音のように轟き、岩肌のぬめりや苔の感触が、生き物の内臓を這っているような生々しい嫌悪感を催させる。


​ アルスは背中で岩を押し、足で天井を蹴って進んだ。


 水流が容赦なく顔を打ち据える。息継ぎをする隙間もわずかしかない。


 冷たい水と共に、あの甘い香気が肺の奥まで侵入してくる。酸素ではない何かが、血液に溶け込んで巡っていく感覚。


​ 進むほどに、岩の隙間は狭まっていった。


 もはや這うことすらままならない。身体をくねらせ、岩の凹凸に合わせて関節を外し、自らの肉を削ぐようにして押し込むしかない。


 恐怖が、ねっとりと首筋にまとわりつく。


​ もし、この先が行き止まりだったら?


 もし、ここで身体が挟まって動けなくなったら?


 誰にも知られず、光も届かないこの暗闇の中で、冷たい水に漬かったまま腐っていくのか。


​「……ぐ、ぅ」


​ 喉の奥から呻き声が漏れた。


 左肩の古傷が岩に強く打ち付けられ、熱した鉄棒を差し込まれたような激痛が走る。


 痛い。苦しい。


 だが、その痛みがアルスの意識を現実リアルに繋ぎ止めていた。


 今の彼は、泥と血にまみれ、恐怖に震える、ただの肉の塊だ。


 帝国軍を憎む兵士としての誇りも、故郷を想う感傷もない。あるのは、ただ「空気を吸いたい」「光を見たい」という、生物としての原初的な渇望だけだった。


​ 岩が、意志を持って彼を拒んでいるようだった。


 穢れた異物を体内に入れたくないと、山そのものが収縮しているかのような錯覚。


 アルスの肋骨がきしみ、呼吸が浅くなる。


​(通してくれ……頼む……!)


​ 彼は心の中で叫んだ。神に祈ったのではない。この山という巨大な生命体への懇願だった。


 俺はもう何も持っていない。武器も捨てた。憎しみも捨てた。ただの抜け殻だ。だから通してくれ。


​ その時だった。


 ふと、水流の中に、柔らかなものが触れた。


 指先で掬い上げると、ぬるりとした感触の中に、確かな生命の形があった。


​ 花弁だ。


 暗闇の中でも、そこだけ微かに燐光を放っているかのように感じられる。


 一枚、また一枚。


 上流から流れてくる花弁が、アルスの頬を、唇を、優しく撫でていく。


 その感触は、拒絶ではなく、いざないだった。


​『こっちだよ』


​ 声が聞こえたわけではない。だが、水が、香りが、そう囁いた気がした。


 アルスの奥底で、萎びかけていた生命の火種が揺らめいた。


 まだ動ける。まだ指は動く。


 彼は岩の突起に指をかけ、爪が剥がれるのも構わずに力を込めた。


​ 身体が、数センチ動く。


 頭上の岩盤が髪を擦り、耳を削ぐ。


 限界だ。これ以上は物理的に通れない――そう絶望しかけた瞬間、不意に水流の音が変わった。


​ ゴウゴウという轟音が遠のき、サラサラという軽やかな音色が近づいてくる。


 そして、閉ざされていた瞼の裏に、色が差した。


​ 光だ。


​ アルスは目を見開いた。


 わずか数メートル先。闇の終わりが見える。


 そこにあるのは、出口という名の光の穴。


 しかし、その光の色は、彼が知っている太陽の白さではなかった。


​ 薄紅うすくれない


​ 淡く、優しく、それでいて目を灼くほどに鮮烈な桜色。


 その光が水面に反射し、洞窟内の黒い岩肌を虹色に揺らめかせていた。


​「あ……」


​ 声にならない吐息が漏れた。


 その光を見た瞬間、全身の筋肉から強張りが解けた。


 岩盤が彼を吐き出そうとしていた。


 最後の難関を、水流が背中を押してくれたのだ。


​ 抵抗が消えた。


 まるで赤子が産道から滑り落ちるように、アルスの身体は狭い岩の隙間から弾き出された。


​ 浮遊感。


 そして、着水。


​ 彼は広い水面へと放り出された。


 背中を打つ衝撃すらない。底知れず深い、柔らかな水が彼を受け止めた。


 水中で目を開ける。


 そこは、光の聖堂だった。


 水面を通して降り注ぐ光が、水底の白い砂と、沈んだ無数の花弁を照らし出している。


 苦しくはない。むしろ、肺の中の澱んだ空気がすべて浄化されていくような心地よさがあった。


​ アルスはゆっくりと浮上した。


 水面を割って顔を出す。


​「ぷはっ……!」


​ 大きく息を吸い込む。


 肺に満ちたのは、戦場の硝煙でも、洞窟のカビ臭さでもない。


 春。


 永遠に続く春の匂いだった。


​ 彼はよろめきながら立ち上がり、浅瀬へと足を運んだ。水は膝下ほどしかない。


 視界を覆っていた水滴を拭い、顔を上げる。


 そして、息を呑んだ。


​ 言葉を失った。


 思考が停止した。


​ そこに広がっていたのは、彼の知るいかなる「現実」とも異なる風景だった。


 兵士としてのアルスは、あの暗い穴の中で死んだのだ。


 そして今、一人の迷い人として、この禁忌の楽園へと産み落とされたのだった。

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