海の死者はcafeにつどう
堀井菖蒲
第1話 緩やかな坂道の先に
「海で事故死の土左衛門が上がったら、海に近付いてはいけなァ。縛り付けられめと、必死に身代わりどご探すから」
年老いた漁師が、海を見つめながら言う。
「死者は茶屋で黄泉の扉どごくぐるのを待つ。だげど身体のねぇ者はそこに縛り付けられる。身代わりどご立てれば免れるが。海の遭難が続くは、身代わりどご立てたという事。身代わりになった人は、同じようにだえか海に引きずり込もうとする。気ぃ付けねばなァ」
「ご忠告ありがとうございます」
私は頭を下げ、老人に背を向けた。隣で雅也が肩を竦め、ボソリと呟く。
「何言ってるかさっぱり分かんねぇ」
私は吹き出してしまった。確かに余所から来た人にここらの方言は難解だ。
「なんでも、あの世とこの世の間にはカフェみたいなとろこがあるんだって。カフェには黄泉の扉があって、くぐる前に想い出の一品を出されるの。それを食べたら、もうこの世には戻れない。つまりは
先ほどの漁師の網にサーファーの遺体が引っかかったのが一昨日。今日は無人の車が海から引き上げられた。真っ赤なミニバンで、ハンドルに長い髪が巻き付いていた。脱出を試みたらしく窓が割れていたけれど、溺れた人も水死体も発見されていない。
「俺は目に見えないものは信じない。悪い、先に署に戻って、捜索願を照会してる」
雅也はそう言って、大きな溜息をついた。私は出来るだけ明るい表情で頷く。
「今日は、早く帰らなきゃね。レストラン予約してるんでしょ?」
雅也は口元を歪めた。多分、笑おうとしたのだと思う。結婚記念日にディナーを予約している人には、とても見えない表情だ。私はジクジクと沸く痛みを無視し、雅也の背中を強く叩く。
「紗奈美、サプライズ大好きだから絶対喜ぶよ」
剣道で鍛えた彼の背中は、硬くて温かかい。だから、しばらく手の平を離せずにいた。
***
いつもより帰りが遅くなった。
周辺住民や港に出入りする人々への聞き込み、報告書の作成。赤い車のお陰で仕事が山のように発生したからだ。
左に切り立つ山、右に深い海。種類の異なる闇の間に、国道が伸びている。歩道を歩きながら、雅也と紗奈美はもう食事を終えただろうかと考える。
雅也と私は警察官で、捜査ではよくペアを組む。紗奈美は私の六つ違いの妹。
紗奈美は、お人形のように可愛い上に身体が弱かったので、過保護に育てられた。私達は、この港町に古くからある和菓子屋の娘だった。昨年父が亡くなったので、廃業してしまったが。
この小さな漁村からは、同じように一つ、また一つと明かりが消えていく。
暗闇にコンビニエンスストアの光が現われた。
寂れた町に不釣り合いな、緑と青の看板に吸い寄せられていく。一人暮らしの私は、ここで胃袋を満たしている。今日は、チキンをあてにビールを飲もう。それから、ロールケーキを一つ、自分に買ってあげよう。
だって、今日は私の三十回目の誕生日だもの。
明るい光に一歩足を踏み入れた時だった。
タスケテクダサイ
そんな言葉が聞こえた気がした。
声の方へ目をこらすと、コンビニの裏手に、女が一人立っていた。長い髪と赤いワンピースが闇に溶けている。その背後から、波の音が絶え間なく聞こえてくる。
「どうかされましたか?」
彼女はこくりと頷いた。
そして、闇の中で私をじっと見つめた後、ゆっくりと歩きだした。
呆気にとられていると、彼女は立ち止まった。どうやら私がついてくるのを待っているようだ。やむなく、彼女の後を追う。
歩調に合わせるように、歩行者信号が青に変わる。闇に浮ぶ緑色の光に向かって、彼女は歩き続ける。
何があったのか聞きたいのだが、どうしても彼女に追いつけない。道が緩やかな上り坂になっても、彼女の歩くスピードは変わらない。
しかし、こんな緩やかな坂道がこの町にあっただろうか。高台の住宅地へ向かう坂道は急勾配だ。山頂の神社への道は、更に険しい。
その二本以外、山に延びている道を私は知らない。
もう三十年、ここに住んでいるのに。
いつの間にか舗装されていない道を歩いている。森が、深い闇をつくっている。
道の両側に、細長い石柱が立っているのが見える。その二つの石柱は、しめ縄で結ばれていた。
思わず足を止める。しかし彼女は躊躇無く石柱の間を抜けて振り返り、私を手招きした。
暗闇の中に、彼女の白い手だけが何か別の生き物のように蠢いている。
私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。躊躇う気持ちとは裏腹に、足がその手の方へ動く。鼓膜の内側で、ジリジリと警告音が鳴る。進んではいけないと思うのに、足が言うことを聞かない。
その時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。ロールプレイングゲームのファンファーレが、静寂な闇を無遠慮に切り裂いていく。私は慌てて通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に押し当てる。
『お姉ちゃん、今すぐ来て』
紗奈美の声が鼓膜を揺する。ねっとりと纏わり付くような、甘えた声。
「今すぐ来てって、何時だと思ってるの?」
『いいじゃない。お姉ちゃんの誕生日なんだから、お祝いしましょうよ!』
一方的な言葉の後通話が切れる。私は溜息をつきながら、スマートフォンをだらりと降ろした。
眼前には、絶え間なく波を運ぶ海原。
しばし、黒い海を見つめた。何か、大切な事を忘れているような気がして。
ふと、背後に人の気配がした。だが、振り返ってもそこには、コンビニエンスストアの光があるだけだ。
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