海の死者はcafeにつどう

堀井菖蒲

第1話 緩やかな坂道の先に

「海で事故死の土左衛門が上がったら、海に近付いてはいけなァ。縛り付けられめと、必死に身代わりどご探すから」


 年老いた漁師が、海を見つめながら言う。


「死者は茶屋で黄泉の扉どごくぐるのを待つ。だげど身体のねぇ者はそこに縛り付けられる。身代わりどご立てれば免れるが。海の遭難が続くは、身代わりどご立てたという事。身代わりになった人は、同じようにだえか海に引きずり込もうとする。気ぃ付けねばなァ」

「ご忠告ありがとうございます」


 私は頭を下げ、老人に背を向けた。隣で雅也が肩を竦め、ボソリと呟く。


「何言ってるかさっぱり分かんねぇ」


 私は吹き出してしまった。確かに余所から来た人にここらの方言は難解だ。


「なんでも、あの世とこの世の間にはカフェみたいなとろこがあるんだって。カフェには黄泉の扉があって、くぐる前に想い出の一品を出されるの。それを食べたら、もうこの世には戻れない。つまりは黄泉戸喫よもつへぐいだね。お腹と心を満たして、心おきなくあの世へ向かうって訳よ。でも、何らかの理由で遺体を弔って貰えなかった人は椅子に縛られてしまい、黄泉の扉を通れない。でも、誰かを身代わりに立てれば開放される。ここは離岸流が起きやすくて水難事故が多く、遺体が発見されないことも多い。それで出来た迷信よ。ま、確かに続くんだよね、水難事故って。この三日で二件だしさ」


 先ほどの漁師の網にサーファーの遺体が引っかかったのが一昨日。今日は無人の車が海から引き上げられた。真っ赤なミニバンで、ハンドルに長い髪が巻き付いていた。脱出を試みたらしく窓が割れていたけれど、溺れた人も水死体も発見されていない。


「俺は目に見えないものは信じない。悪い、先に署に戻って、捜索願を照会してる」


 雅也はそう言って、大きな溜息をついた。私は出来るだけ明るい表情で頷く。


「今日は、早く帰らなきゃね。レストラン予約してるんでしょ?」


 雅也は口元を歪めた。多分、笑おうとしたのだと思う。結婚記念日にディナーを予約している人には、とても見えない表情だ。私はジクジクと沸く痛みを無視し、雅也の背中を強く叩く。


「紗奈美、サプライズ大好きだから絶対喜ぶよ」


 剣道で鍛えた彼の背中は、硬くて温かかい。だから、しばらく手の平を離せずにいた。


***


 いつもより帰りが遅くなった。


 周辺住民や港に出入りする人々への聞き込み、報告書の作成。赤い車のお陰で仕事が山のように発生したからだ。


 左に切り立つ山、右に深い海。種類の異なる闇の間に、国道が伸びている。歩道を歩きながら、雅也と紗奈美はもう食事を終えただろうかと考える。


 雅也と私は警察官で、捜査ではよくペアを組む。紗奈美は私の六つ違いの妹。


 紗奈美は、お人形のように可愛い上に身体が弱かったので、過保護に育てられた。私達は、この港町に古くからある和菓子屋の娘だった。昨年父が亡くなったので、廃業してしまったが。


 この小さな漁村からは、同じように一つ、また一つと明かりが消えていく。


 暗闇にコンビニエンスストアの光が現われた。


 寂れた町に不釣り合いな、緑と青の看板に吸い寄せられていく。一人暮らしの私は、ここで胃袋を満たしている。今日は、チキンをあてにビールを飲もう。それから、ロールケーキを一つ、自分に買ってあげよう。


 だって、今日は私の三十回目の誕生日だもの。


 明るい光に一歩足を踏み入れた時だった。



 タスケテクダサイ



 そんな言葉が聞こえた気がした。


 声の方へ目をこらすと、コンビニの裏手に、女が一人立っていた。長い髪と赤いワンピースが闇に溶けている。その背後から、波の音が絶え間なく聞こえてくる。


「どうかされましたか?」


 彼女はこくりと頷いた。


 そして、闇の中で私をじっと見つめた後、ゆっくりと歩きだした。


 呆気にとられていると、彼女は立ち止まった。どうやら私がついてくるのを待っているようだ。やむなく、彼女の後を追う。


 歩調に合わせるように、歩行者信号が青に変わる。闇に浮ぶ緑色の光に向かって、彼女は歩き続ける。


 何があったのか聞きたいのだが、どうしても彼女に追いつけない。道が緩やかな上り坂になっても、彼女の歩くスピードは変わらない。


 しかし、こんな緩やかな坂道がこの町にあっただろうか。高台の住宅地へ向かう坂道は急勾配だ。山頂の神社への道は、更に険しい。


 その二本以外、山に延びている道を私は知らない。


 もう三十年、ここに住んでいるのに。


 いつの間にか舗装されていない道を歩いている。森が、深い闇をつくっている。


 道の両側に、細長い石柱が立っているのが見える。その二つの石柱は、しめ縄で結ばれていた。


 思わず足を止める。しかし彼女は躊躇無く石柱の間を抜けて振り返り、私を手招きした。


 暗闇の中に、彼女の白い手だけが何か別の生き物のように蠢いている。


 私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。躊躇う気持ちとは裏腹に、足がその手の方へ動く。鼓膜の内側で、ジリジリと警告音が鳴る。進んではいけないと思うのに、足が言うことを聞かない。


 その時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。ロールプレイングゲームのファンファーレが、静寂な闇を無遠慮に切り裂いていく。私は慌てて通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に押し当てる。


『お姉ちゃん、今すぐ来て』


 紗奈美の声が鼓膜を揺する。ねっとりと纏わり付くような、甘えた声。


「今すぐ来てって、何時だと思ってるの?」

『いいじゃない。お姉ちゃんの誕生日なんだから、お祝いしましょうよ!』


 一方的な言葉の後通話が切れる。私は溜息をつきながら、スマートフォンをだらりと降ろした。


 眼前には、絶え間なく波を運ぶ海原。


 しばし、黒い海を見つめた。何か、大切な事を忘れているような気がして。


 ふと、背後に人の気配がした。だが、振り返ってもそこには、コンビニエンスストアの光があるだけだ。


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