第13話:思い出と日常の中で

第13話:思い出と日常の中で


朝の光が、いつもより静かにキッチンの床に差し込む。

「……やっぱり、俺一人だとこんなに静かなんだな」


僕は軽くため息をつき、炊きたてのご飯をしゃもじで混ぜた。湯気の香りが鼻をくすぐる。香りだけは、あの頃と変わらない。

「……でも、味は全然違うな」


妻が作っていた塩おにぎりの味を、つい思い出してしまう。あのぬちまーすの塩気、数の子わさびのツンとした香り、韓国のりのパリッとした音……指先でぎゅっと握るご飯の感触も、手に残る温もりも。


「今日のは……ふにゃっとしてるな、俺の握り方」

自分で作ったおにぎりを一つ、軽く握ってみる。ご飯は熱いけれど、手に伝わるぬくもりがなんだか頼りなく感じる。形も不格好で、食べる前からちょっと笑えてしまう。


子どもの頃、母に教わったおにぎりの作り方を思い出す。ご飯を詰めすぎず、手のひらで軽く包むだけ。塩はちょっと多めに、でもむやみに振らずに指先で少しだけ。母の手も温かくて、包まれる感覚があった。


「あの頃の俺は、手の感覚だけで美味しく握れたのに……」

そうつぶやきながら、僕は塩を指先でつまみ、ご飯にそっと振る。塩の粒が指先で弾け、ふわっと香りが鼻を抜ける。少し、思い出す。妻が笑いながら「ここがちょうどいいの」と指先で僕の手を添えてくれたことを。


「……あの人、どうしてるかな」

軽く肩をすくめる。離婚してからは、こうして自分のためだけにご飯を作る日々。日常は淡々としているけれど、こうして手を動かすことで、少しずつ自分の世界を取り戻している気がする。


ふと思い立ち、冷蔵庫から海苔と小さなパックの数の子わさびを取り出す。

「いや、別に彼女のためじゃないけど……あの味をちょっと思い出したくて」

わさびの香りが立ち、鼻をつんと刺す。思わず笑いが漏れる。

「……やっぱり、この匂いだけで気分がちょっと変わるな」


おにぎりを握りながら、ふと昔の会話が脳裏に浮かぶ。

「ねぇ、あなたが握るおにぎりも、美味しいんだけど……私の塩加減、ちょっと真似してみてよ」

妻はいつもそんな風に、冗談めかして言っていた。軽口を叩きながらも、握る瞬間の真剣な目が印象的だった。


「……ああ、そうか。真似するってのも、愛情の一つだったんだな」

自分一人で握るおにぎりに、そんな温かさを添えたくなる。ちょっと不格好でも、心を込めれば味わいが変わるかもしれない。


僕は海苔を小さくちぎり、コロコロとご飯にまぶす。手のひらで軽く押さえると、香ばしい香りが立ち、口の中でほろっと崩れそうな食感が生まれる。

「……あ、これなら意外といいかも」

思わずつぶやくと、どこからか笑い声が聞こえそうな気がした。昔、キッチンで妻と二人で笑いあった空気が、ふっと蘇る。


おにぎりをひとつ、口に運ぶ。熱々のご飯と塩味が口いっぱいに広がる。わさびの香りが鼻を抜け、韓国のりの香ばしさが舌先で踊る。口に入れた瞬間、思わず目を閉じて味わう。

「……意外と、悪くない」

小さな声でつぶやくと、心のどこかでふっと安堵が広がる。美味しい、とはまだ言えないけれど、確かに日常の味わいは戻ってきた。


「ねぇ、またこんな風に作ってみたら?」

思わず声が聞こえたような気がして、僕はにやりと笑う。独り言だ。

「そうだな……次はもっと上手く作れるかもな」

手のひらに残る温かさ、湯気と塩の香り、わさびのツンとした刺激。五感で感じるすべてが、僕を少しずつ前に進める。


おにぎりを頬張りながら、僕は小さな日常の幸せを噛み締める。離婚して一人になったけれど、妻から学んだ小さな喜びはまだ、僕の中に息づいている。

「ありがとう、俺の人生……ちょっとずつ、また面白くなってきたな」


キッチンに静かに降り注ぐ冬の光。湯気と香りが満ちた空間で、僕はもう一度、ご飯を握る。形は不格好でも、心は温かい。思い出と日常が交差するこの瞬間に、小さな笑いと幸福を感じながら。


「……今日も、美味しくなあれ」

つぶやきながら、僕はご飯をそっと包む。塩の粒を指で押さえ、わさびを少しだけ加えて。これが、僕なりの、日常の味。


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