第1話:出会いの味
第1話:出会いの味
「……これ、何て言うか知ってる?」
僕は差し出された小さなおにぎりを見つめた。まあるい米の塊。焼き海苔がぴたりと巻かれ、つやつやと光る。手に取ると、ほんのり温かい。
「……おにぎりだよね」
僕はそう答えながら、胸の奥に小さな期待が芽生えるのを感じていた。だって、彼女が握ったおにぎりだ。彼女――ユリは、ただの主婦ではない何かを帯びていた。空気に触れただけで、世界が少し鮮やかになるような、そんな不思議な魅力があったのだ。
「ふふ、そうね。でも、普通のおにぎりとはちょっと違うのよ」
ユリはにこりと笑った。その笑顔には、言葉にできない何かが含まれていた。僕の心が、思わず耳まで熱くなる。
箸を持つ手が震えた。香りが鼻をくすぐる。炊きたての米の甘さ、海苔の磯の香り、そしてわずかに漂う塩の匂い。それらが一瞬にして、僕の全神経を支配した。
「……う、うまい」
僕の口から、思わず声が漏れる。唇に触れた米粒の柔らかさ、口の中でほどける甘みと、酸味のない塩気のバランス。まるで、僕の中に封じ込められていた小さな幸福の種が、突然芽吹くようだった。
「……そんなに驚いた顔、初めて見るわ」
ユリが僕を見つめる。黒目が大きく、瞳の奥で何か光っている。熱、色、匂い、すべてを凌駕する彼女の存在感。それに気づいた瞬間、僕の心臓は小刻みに震えた。
「どうして、こんなに……普通のおにぎりなのに、こんなに美味しいんだろう」
「ふふ、秘密よ」
彼女は口元に指をあてて笑う。柔らかい声、微かにかすれた音色、それが耳に残る。僕は思わず息を止めたくなる衝動を覚えた。
僕はもう一口食べる。口の中で、米がほんのり温かく広がり、手のひらに残るおにぎりの重さが、まるで存在の確かさを伝えてくるようだった。心の奥底から、ほろりと涙がにじむ。
「……ありがとう」
思わず、ユリに声をかけた。
「え?」
「この……おにぎりを作ってくれて、ありがとう」
ユリは小さく息を吐き、目を細めて笑った。
「……ふふ、そんなに感謝されるほどのことじゃないわよ」
でも、その笑顔の端に、何か普通ではない光がちらついた。
僕はその瞬間、はっきりと感じた。彼女はただの人間じゃない。どこか神秘的で、手の届かない存在の香りを帯びている――そんな気がしたのだ。
「でも……僕、もう、この味を忘れられないかもしれない」
僕の声は、震えていた。五感すべてが覚醒するような感覚。舌の上で踊る米粒の甘み、手のひらに残る温かさ、目の前のユリの存在感。全てが一体となり、僕の心を包み込む。
ユリは少しうつむき、手でおにぎりの形を整えながら、静かに言った。
「……それなら、また作るわね」
その声は、単なる約束ではなく、未来に向かう確信のように響いた。
「……ええ、絶対に食べたい」
僕は自然に答えていた。胸の奥に、熱くて柔らかい何かが膨らむのを感じる。
そのとき、ユリの手が一瞬だけ僕の手に触れた。ぴりりとした電流のような感覚。触れただけなのに、全身の血流が一気に加速する。
「……なに?」
「なにも」
ユリは目を伏せ、微笑む。けれど、その微笑みの端に、言葉にできない力が宿っていた。何か、普通の人間には持ち得ない力が、ふわりと空気を震わせる。
僕は言葉を失った。目の前の彼女のすべてが、現実を超えて輝いているように感じられた。おにぎりの温かさ、彼女の声、指先の触れ合い――すべてがひとつの奇跡のようだった。
「……僕、ユリさんのこと、もっと知りたい」
つぶやく僕の声は、震えと希望に満ちていた。
ユリは少しだけ首をかしげ、ふっと笑った。
「ふふ、じゃあ、これから少しずつね」
その瞬間、僕の世界が少しだけ広がった。
おにぎり一つで、こんなにも心が動くなんて。
小さな米粒の塊が、人生の景色を変えてしまうなんて。
「……これから、よろしくね」
「ええ、よろしく」
微笑み合う二人。台所に差し込む朝の光が、まるで祝福のように米粒を照らした。
そして、僕は確信した。
この出会いは、ただのおにぎりの味だけじゃない。
ユリのすべて、彼女が持つ神秘の香り、その微笑みの奥にある力――それらすべてを含めて、僕の人生を変えてしまう予感だった。
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