第3話 買っちった☆
配属後、ユリアンは名誉も何もないこの埃っぽいオフィスで、膨大な古い帳簿に向かい続けていた。父の銀行で培った金融の知識を応用すれば、この腐敗の奥に、王国の心臓へと続く致命的な横領ルートが隠れていることは明らかだった。そして今日、その糸口を掴んだ。
「レオン 准尉、これはどういう意味だ?」
ユリアンは、カウンター席で古い通信機を修理していた技術将校——レオン・シュミット 准尉に声をかけた。ユリアンより年長で現場経験が豊富なレオンだが、士官学校出のエリートであるユリアンの方が階級は上だ。
「第三軍管区の備蓄倉庫B-47から、戦時中に『油脂および種子混合物 3000単位』が払い出されている。記録上は『前線物資の緊急転用』となっているが、その後の前線部隊の受け入れ記録がない」
レオンはハンダごてを置き、汗を拭った。
「ああ、よくあることです。記録ミスか、上層部の『融通』ですよ。調達部のカール・ブライトが関わっているのは明白ですが、突っつくと面倒なだけですよ、少尉殿」
「融通、か」
ユリアンは薄く笑った。彼の父の銀行を潰した王国の『戦時非常事態宣言』も、結局は『融通』という名の強欲だった。
「帳簿上のカロリー計算が合わない。この3000単位の穀物と油は、最低でも200人の兵士を半年間養える食料だ。これは記録ミスではない。誰かが、兵士の命を担保に、ちまちま富を築いている」
ユリアンは、この横領の糸口が、軍部の腐敗だけでなく、貨幣の信用を失い始めている王国の富の流動先を示していることを確信した。王室が貨幣を捨てて食料(実体)を奪う道を選んだ瞬間から、その流れを握る兵站部門こそ、王国の最も重要な心臓になったのだ。
復讐への確信が、冷たい興奮となって彼の内側を駆け巡った。このまま帳簿に向かい続けるのは、彼の知性にとって耐えがたい。
「気分転換だ、レオン准尉。少し付き合え」
二人は軍服のまま、軍部からほど近い庶民の市場へ向かった。
市場は人々の熱気と、肉や香辛料の匂いで満ちていたが、その中心には張り詰めた不安の空気が流れていた。
ユリアンは、一つのパン屋の前で立ち止まった。
「パン一斤、いくらだ?」
「0.7 ブロンズだよ、お兄さん」
店主は無愛想に答え、レオンはため息をついた。
「去年の冬は 0.5 Bだった。たった 0.2 Bの差だが、日雇い労働者の日給が 3 Bの今、この 0.2 Bが彼らの夕食を消し去る」
ユリアンは、数字ではなく、その 0.2 B が生み出す人々の不安を観察した。
隣の鶏肉の露店では、客と店主が言い争っていた。鶏肉の価格は 1.5 Bにまで上がっているが、それ以上に問題があった。
「なぜ銀貨を受け取らないんだ!1 S は 10 Bだろう!」
「銀貨はもう信用できねぇ!俺が欲しいのは保存の効く穀物だ!飢えを凌ぐ食い物こそが価値だ!1 S渡すくらいなら、硬いライ麦パンでも持ってこい!」
ユリアンはレオンに耳打ちした。
「見たか、准尉。王室が信用を裏切って以降、市場はすでに貨幣の価値を疑い始めている。価格が 0.2 B上がるよりも、市場が貨幣以外の何かを求め始めたことの方が、この国の未来にとってはるかに致命的だ」
レオンは、市場の熱狂から一歩離れた場所に目を向けた。市場の中心で起きているのは公然の不信だが、真の不安は必ず裏側で、ひそかに取引される。
「准尉、少しここで待っていてください」
ユリアンの声にレオンは戸惑ったが素直に従った。市場の裏路地。レオンが慌てた様子で、一人の痩せた農夫と小さな取引をしている現場を、ユリアンは目撃した。
レオンは、軍服のポケットから取り出した少量の銀貨と引き換えに、農夫から種子を受け取っていた。
取引が終わると、レオンは申し訳なさそうに言った。
「すまない、少尉殿。妹が嫁いだ農家で、来年の種が足りないんだ。軍の物資ではない、これは個人的な……」
ユリアンはそれを咎めなかった。むしろ冷たい瞳でレオンを見た。
「君の不正は、軍の帳簿には影響しない。だが、君は**『誰が、何を、どれだけ、そしていつ』必要としているかを知っている。その現場の知識**こそが、帳簿の数字よりも遥かに価値がある」
ユリアンは立ち止まり、レオンに向き合った。
「レオン准尉、君の言うカール・ブライトの横領ルートを告発しても意味はない。奴はトカゲの尻尾だ。我々の目的は、システムを効率化することで、横領そのものをデータ上で存在しなかったことにすることだ」
ユリアンは、帳簿と現実の物流を完全に一致させる新システムを構築し、横領ルートを遮断する計画を提示した。
「協力しろ。君の技術と現場の知識が、この腐敗した心臓を握る鍵だ。そして、君の妹の農家は来年飢えないだろう」
レオンは戸惑いつつも、ユリアンの持つ冷徹な合理性と、彼自身の家族を守りたいという強い思いに突き動かされ、無言で頷いた。
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