第4話
〈兄視点〉
玄関の扉を閉め、鍵をカチャリと回した瞬間。
家の中に残してきた温かな空間が、ふっと遠ざかった気がした。
さっきまで、確かにそこにあったもの。
生活の匂いと、静かな気配と、
そして――何より柚葉の存在。
腕の中にいた体温が、
まだ手のひらにうっすら残っている。
小さく寄りかかってきた重さ。
眠そうに瞬きを繰り返していた目。
撫でた髪の、思ったより柔らかい感触。
全部が、そのまま抜けきらずに残っていた。
「………………ほんとに、甘えん坊だな」
思わず、ため息と共に声が零れる。
誰に聞かせるわけでもないのに。
あの少し寂しそうな顔を置いていくのは、
何度経験しても、やっぱり胸の奥がちくりと痛んだ。
けれど、仕事は仕事だ。
今日、柚葉が寝る頃には、もう自分は家にいない。
それが日常で、
それを守るための仕事でもある。
玄関先で一度息を整えてから歩き出すと、
夏の焼けつくような、ジリジリとした暑さが、
一気にまとわりついてきた。
さっきまでいた家の涼しさが、
急に遠い場所のことのように感じられる。
柚葉の温もりも、
ついさっきまで触れていたはずなのに、
もう恋しい。
「……朝になったら、すぐ帰るからな」
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
ふと、庭の方を見る。
そこに、以前誕生日にプレゼントした柚葉の自転車があった。
少し前に比べて、ずいぶん扱い慣れた様子で、
きちんと立てかけられている。
最初は、
ペダルに足を乗せることすら怖がっていた。
何度も転びそうになって、
それでも歯を食いしばって、
泣きそうな顔でハンドルを握っていた。
「……あいつ、ほんとに……」
がんばって乗れるようになったよな。
言葉にしなくても、
胸の中に自然と、その続きが浮かぶ。
小さな背中を思い出しながら、
家のすぐ裏手、川を挟んだ向かいに建つ
職場の病院へと足を向けた。
通勤は徒歩だ。
近いのは助かるが、
その分、家の存在を強く意識させられる距離でもある。
夜勤の同僚に渡す差し入れは、
職場前のコンビニで買う予定だ。
自動ドアが開き、
冷ややかな空気が全身を包み込む。
汗ばんでいた肌が、
一瞬で冷える感覚。
必要な物と飲み物、
それから簡単につまめるお菓子を手早く選び、
再び外へ出ると、
変わらず夏の熱気が身体にまとわりついた。
ジリジリ、ジージージージー。
蝉の鳴き声が、
夏の暑さをさらに押しつけてくる。
そのまま病院へ向かい、
職員通用口から中へ入る。
「お疲れさまです」
すれ違う職員たちと挨拶を交わしながら更衣室へ向かい、
手早く制服に着替える。
所属する階の職員用休憩室へ入り、
夜勤用の荷物を置いた、その時だった。
「綾瀬さん、今日よろしくね」
明るく響く声に振り返ると、
温かな空気をまとった
水瀬紗月(みなせ さつき)先輩が、
いつものように朗らかな笑顔で立っていた。
「お疲れさまです。よろしくお願いします、水瀬さん」
「相変わらず早いね、来るの」
「紗月先輩も同じじゃないですか」
二人で軽く笑い合いながら、
カバンを開けたとき、
悠真はふと、指先の感触に違和感を覚えた。
あるはずの重さが、ない。
「……あれ」
もう一度確認して、
はっきりと気づく。
「……弁当、ないな」
時計を見ると、
業務開始まで四十分以上ある。
取りに帰る時間は十分ある。
ただ、歩きだと少しだけ慌ただしい。
カバンを閉め、その場を出ようとした瞬間、
背中から声がかかった。
「どうしたの、綾瀬さん?」
「……弁当、忘れてきました」
そう言うと、
紗月先輩は一瞬だけ首を傾げ、
すぐに、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「近いんだし、車で送ろっか? 家まで」
「え、いや……そこまでしてもらうのは……」
「時間もったいないでしょ? 大丈夫、乗って」
迷いはあったが、
確かに、この時間を無駄にするのも惜しい。
結局、悠真は小さく息を吐いて、
頷いてしまった。
「……じゃあ、お願いします」
「更衣室で着替えてきて。表で待ってるから」
そう言って紗月先輩は軽く手を振り、
悠真は再び更衣室へ戻っていった。
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