痕跡─ある銀行員と一匹の猫─

Omote裏misatO

第1話 数字の向こう側

この小説を読めばどうなるものか。

迷うなかれ。


迷えば、物語は動かない。


だが一頁めくれば、

その一歩が物語となり、

その一歩が道になる。


迷わず読めよ。

読めばわかるさ。


――さあ、いけ!





 朝の七時四十二分。

 佐藤はいつも通り、改札を出てすぐの横断歩道を渡り、銀行のガラス張りの自動ドアをくぐった。エレベーターで七階に上がり、融資課の奥、自分の席に座る。まだ同僚のほとんどは来ていない。蛍光灯の白い光が、整然と並んだデスクを照らしている。空気は少し冷えていて、昨夜の清掃の匂いが残っている。

 デスクの上には、前日の処理済み案件のファイルが三つ、きれいに重ねて置かれていた。

 佐藤はコーヒーを淹れに行くこともせず、すぐに一番上のファイルを手に取った。


 一つ目は、町工場の社長だった。

 借入残高は八千二百万円。機械設備と工場用地を担保にしていた。社長は六十歳を少し過ぎたくらいで、息子が継ぐ予定だったがコロナが長引いて受注が減り、資金繰りが悪化した。佐藤は条件変更を二度認めた。三度目は拒否した。担保物件の競売手続きに入ったのは、先月のことだ。

 社長は先週、工場から三キロほど離れた川で遺体となって発見された。

 遺書はなかった。警察の判断は自殺。新聞の地方欄に小さな記事が載っただけだ。佐藤はそれを読み、すぐに次の仕事に移った。


 二つ目は、飲食店チェーンのオーナー。

 五店舗を展開していた。郊外のファミリー層向けの店で、昔はそこそこ繁盛していたらしい。オーナーは五十代後半。佐藤が担当になってから、借入は増える一方だった。コロナ以降、客足が戻らず、毎月の返済が滞り始めた。佐藤は一度だけ、利息の猶予を認めた。それ以上は無理だった。銀行のルールだ。

 オーナーは家族三人と練炭自殺を選んだ。

妻と高校生の娘。発見されたのは、閉店後の本店の一室だった。換気扇は止められ、カーテンは閉められていた。新聞には「多額の借金が原因か」とだけ書かれていた。佐藤は記事を読んで、ため息をついた。ため息の理由は、自分でもよくわからなかった。


 三つ目は、まだ処理途中だった。

 小さな建設会社の社長。借入は三千万。返済が三ヶ月遅れている。佐藤は昨日、社長に電話をかけた。社長の声は震えていた。「もう少し待ってくれないか」と懇願された。佐藤は「検討します」と答えて電話を切った。検討する気など、最初からなかった。

 午前九時を過ぎると、課内が徐々に賑やかになってきた。

 同僚の田村が、コーヒーカップを片手に佐藤のデスクに近づいてきた。三十代半ばで、佐藤より五年遅れて入行した男だ。まだ少し若さの残る顔立ちで、いつも冗談めかした口調で話す。

「おい佐藤、今年何件目だよ?」

 田村はファイルをちらりと見て、にやりと笑った。

 佐藤はモニターから目を上げずに答えた。

「五件目」

「相変わらずだな。俺なんかまだ二件しか処理できてねえよ。課長に怒られるわ」

 田村は自分の席に戻りながら、肩をすくめた。羨ましがっているのは本気だと、佐藤にはわかった。処理件数は評価に直結する。数字がすべてだ。数字が上がれば、昇進も早い。佐藤は入行十五年目で、すでに主任のポストに就いている。同期の中では早い方だった。

 午前中の会議で、課長が言った。

「今年は特に厳しくいく。不良債権は早めに処理しろ。甘い対応は銀行全体の損失だ」

 誰も異議を唱えなかった。唱える理由がない。みんな同じ仕事をやっている。佐藤も、ただ頷いた。

 昼休み、佐藤は弁当を買わなかった。

 デスクでコーヒーだけを飲みながら、画面に表示された数字を眺めていた。赤字の数字が並んでいる。どれも、誰かの生活が裏にある数字だ。でも佐藤は、それを生活とは思わなかった。数字は数字だ。返せないものは返せない。銀行は慈善事業ではない。

 午後の時間は、別の案件の資料作成に費やされた。

 小さな印刷会社の社長。借入残高一千万。返済遅延二ヶ月。佐藤は内容証明郵便の文面を淡々と打った。


“貴殿の借入金につき、期限の利益を喪失したので、一括返済を求める”


──いつもの文面だ。社長は電話で泣きついてきたことがある。「社員を路頭に迷わせたくない」と。佐藤は「わかりました」と答えて、電話を切った。わかりました、とは言ったが、何も変わらない。

 夕方、五時を過ぎると、課内の人々が少しずつ帰り支度を始めた。

 佐藤はまだ残っていた。最後のファイルを閉じ、モニターをオフにした。時計は六時半を回っていた。

 外はもう暗い。

 銀行のビルを出て、駅に向かう道はいつも同じだ。コンビニで夕食を買うか、そのままアパートに帰るか。今日はコンビニに寄った。おにぎりとカップ麺。それだけ。

 アパートは古い三階建ての建物で、佐藤の部屋は二階の角部屋だ。

 エレベーターはない。階段を上り、鍵を開ける。部屋は六畳一間と台所。家具は最低限。ベッドと小さなテーブル、テレビは地デジに変更した時に買ったものを今でも使用している。壁には何も飾っていない。質素といえばそれまでたが、彼にはそのような日常の生活に対してあまり興味がないといったほうが正解かもしれない。

 佐藤はカップ麺を食べながら、テレビのニュースを見た。

 株価の変動、政治家のスキャンダル、海外の紛争。どれも自分に関係ないことばかりだ。食べ終わると、容器やコップなどを洗い、すぐにベッドに入った。

 明日はまた、七時四十二分に銀行に着く。

 新しいファイルが、デスクの上に置かれているだろう。

 佐藤は目を閉じた。

 眠りはいつも浅い。でも、それで十分だった。深い眠りなど、必要ない。

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