異世界で危険を見抜く俺は、今日も誰かの命を守っている

もやし

第1話 森で目を覚ましたら、猫耳に睨まれていた

 川の水は、思った以上に冷たかった。


 濁った水の中で、小さな影が必死にもがいているのが見えた。子猫だった。


「……っ」


 考えるより先に、体が動いていた。

 靴を脱ぐこともせず、俺は川へ飛び込む。


 腕を伸ばし、子猫を掴む。

 小さな体は震えていたが、確かに生きていた。


 岸へ放り投げた、その直後――


 急に、体が動かなくなった。


(……あ)


 水が肺に流れ込み、視界が白くなる。

 必死にもがくが、体は重く、流れに逆らえない。


(……また、助けてる)


 沈みながら、そんなことを考えていた。


 水面の向こうで、子猫がこちらを見ていた。

 生きている。


 それで、よかった。


 次の瞬間、意識は闇に沈んだ。


  * * *


 次に意識が浮かび上がったとき、最初に感じたのは――土と草の匂いだった。


「……は?」


 重たいまぶたを開けると、視界いっぱいに広がるのは見知らぬ木々。

 背の高い木々の間を、薄い霧がゆっくりと流れている。


 空気は冷たく澄み、肺に吸い込むたびに胸の奥がひんやりとした。


「……どこだ、ここ」


 上体を起こそうとして、違和感に気づく。


「……軽い?」


 身体が、やけに軽かった。

 息苦しくない。呼吸が普通にできる、それに加えびしょ濡れになるはずの服が乾いている。

 夢にしては、感覚がはっきりしすぎている。

 だが現実にしては、辻褄が合わなさすぎた。


 困惑していると、霧の向こうから小さな音が聞こえた。


 足音。

 柔らかく、慎重な足取り。


「……誰かいるのか?」


 声を出した瞬間、霧が揺れ、人影が現れる。


 最初に目に入ったのは、白いものだった。

 それが耳だと理解するまで、一瞬の間があった。


 白銀の猫耳。

 同じ色の髪が肩口で揺れ、腰のあたりでは灰と白が混じった尻尾が静かに動いている。


 少女は、動きやすそうな赤い装束を身にまとっていた。


 上半身は身体に程よく沿った軽装の衣。

 肩や腕は自由に動かせるよう露出があり、腰回りには革製のベルトと小さなポーチ。

 太ももにはナイフ用のホルスターが固定されている。


 装飾は控えめだが、実用性を最優先した服装だと一目で分かる。

 村娘というより、狩人に近い。


「……人族?」


 少女の声は、警戒と戸惑いが入り混じっていた。


「ちょ、待って。怪しいのは分かるけど――」


 説明しようとした瞬間、彼女は腰のナイフに手をかける。


「近づかないで」


 反射的に後ずさる。

 その瞬間、視界の端に、見覚えのないものが浮かんだ。

 黄色と黒、妙に整った形。中心には大きく!マークがデカデカと描かれているアレだ。


(……標識?)


 一瞬、胸が跳ねる。


(これが……異世界能力ってやつか?)


 だが、次の瞬間を待っても、何も起こらない。


 体が止まるわけでもない。

 景色が変わるわけでもない。

 不思議な力が発動する気配すらない。


 ただ、そこに表示されただけだった。


(……え? それだけ?)


 足元の木の根に引っかかったのに気づいた時には遅かった。


「うわっ!?」


 視界が回転し、地面が迫る。

 後頭部に鈍い衝撃が走り、思考が一気に白くなる。

 気絶する直前、ひとつだけ分かったことがある。


 ――どうやら俺は、

 役に立たない能力を手に入れたらしい。

 倒れ込む直前、ぼやけた視界の中で――

 赤い服と、心配そうに覗き込む白銀の猫耳、そして揺れる尻尾が焼き付いた。


(……やっぱ、ケモ耳だ……)


 そこまで考えたところで、意識は完全に途切れた。


  * * *


「……ん」


 目を覚ますと、木の天井があった。


 鼻に届くのは、木と薬草が混ざったような匂い。

 壁も床も木造で、質素だが清潔な空間だった。


「……家?」


 身体を起こし、ゆっくりと周囲を見渡す。

 簡単な棚、椅子、寝台。

 よくある異世界ファンタジーで見たことのある木造民家そのものだ。


(……夢じゃ、なさそうだな)


 しばらくすると、扉がきしりと音を立てて開いた。


「あ、目、覚めたんだ」


 入ってきたのは、森で会った少女だった。


 赤い服装は室内でも変わらず、

 動くたびに布と革が軽く擦れる音がする。


 白銀の猫耳と尻尾は、やっぱり本物だった。


(……本当に夢じゃない)


「ここ……」


「私の家。

 あのまま森で倒れてたら、危なかったから」


 淡々とした口調だが、嘘は感じられない。


「助けてくれたのか」


「……嫌だっただけ。

 見捨てるのが」


 その言い方は、飾り気がなく、妙に胸に残った。


「ありがとう。本当に助かった」


「……どういたしまして」


 一瞬だけ、視線が泳ぐ。


 その時――

 別の部屋から、抑えきれない咳の音が聞こえた。


「ゴホッ……ゴホッ……」


 少女は、はっとして振り返る。

 一瞬だけ浮かんだ、はっきりとした心配の表情。


 だがすぐに、何事もなかったようにこちらを向いた。


「……もう大丈夫そうなら、出てってくれる?」


 少し冷たい言い方。

 けれど、突き放す感じではなかった。


「世話になった。

 俺は真也っていう」


「……リネア」


 短い自己紹介だけで、会話は終わった。


 家を出た瞬間、俺は言葉を失った。


 小さな村。

 木と石でできた家々。


 そして――


「……ケモ耳、だらけ」


 猫耳、犬耳、獣の尻尾。

 あちこちで揺れている。


 向けられる視線は、好奇心と警戒が半々。

 だが、軽蔑ではない。

 しかしどこか空気が重い。

 笑っている者が、ほとんどいないことに気づいた。


「……ねえ」


 リネアが、不思議そうにこちらを見る。


「貴方、人族なのに……

 私たちを見て、軽蔑しないの?」


「え?」


 思わず聞き返した。


「なんで?」


 本気で分からなかった。


「ケモ耳最高じゃん」


 完全な本音だった。


「……は?」


 リネアが固まる。


「……あんた、本当に人族?」


「見た目はそうらしいな」


 彼女はじっとこちらを見つめる。


「……匂い、少し違う。

 澄んでる感じがする」


「そうなのか?」


 俺は肩をすくめ、改めて村を見渡した。


 知らない空。

 知らない景色。

 知らない人々。


 胸の奥で、ようやく実感が形になる。


「……なあ。

 この世界って、なんて言うんだ?」


 リネアは一瞬、きょとんとした。


「……え?

 知らないの?」


 まるで「常識でしょ?」と言いたげな顔。


「ミスティリアよ」


「……ミスティリア」


 口に出して、噛みしめる。


「ここは、獣人の村。

 エルン村」


「……なるほどな」


 俺は村を見渡した。


 揺れる耳と尻尾。

 間違いなく、異世界の光景。


「異世界……やべーな」


 思わず、笑いがこぼれた。

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