第12話 洗濯物より先に、理性が干されていた

 朝だった。

 誠志郎にとって朝とは、感情を挟まない時間であり、決められた工程を決められた順で処理するだけの、最も安全で、最も静かな日常であるはずだったのだが、その前提はキッチンとリビングの境目を見た瞬間に、いとも簡単に崩れ去った。


「……どうして、そこにいるんですか」


 動線のど真ん中に、リラがいた。

 横向きに寝転がり、片肘をついたままスマホを操作しているだけの姿勢なのに、クッションの置き方と体の向きのせいで、胸元だけが不自然なほど前にせり出し、空間の主導権を完全に握っている。


「ここ、ちょうどいいんだよ」


「通路です」


「朝は通路とか気にしない派」


「時間は関係ありません」


 誠志郎はそれ以上言うのをやめ、深く息を吸い込むと、視線を意図的に上へ固定したまま、冷蔵庫までの最短距離を選び、慎重に一歩を踏み出した。


 ——見ない。

 ——触れない。

 ——巻き込まれない。


 次の瞬間、足裏に伝わった感触は、あまりにも柔らかく、あまりにも予想外だった。


 クッションだった。


 踏んだ瞬間、それは勢いよく滑り、誠志郎の体は完全に制御を失ったまま、前方へ倒れ込む形になる。


「っ……!」


 反射的に床へ両腕を伸ばし、体重そのものは受け止めたが、勢いまでは殺しきれず、距離だけが一気に詰まる。


 その結果として、逃げ場のない位置にあった柔らかさに、彼の上半身が当たった。


 一瞬だった。

 だが、はっきりと分かるほどの接触だった。


 誠志郎はすぐに体を引き、床に膝をついたまま動けなくなる。


「……今の」


「事故だね」


 リラは即答だった。

 声には余裕があり、むしろ楽しそうですらある。


「私、動いてないし」


「……事実関係は確認しています」


 誠志郎の耳は、はっきりと赤くなっていた。

 理性は保たれている。

 ただし、思考の処理が、完全に追いついていない。


 誠志郎はしばらくそのまま動けずにいたが、何もなかったふりをするしかないと判断して、ようやく立ち上がった。


 次の異変に気づいたのは、洗濯機の表示を見た瞬間だった。

 通常より長い残り時間が表示されていて、計算してもどう考えても容量が増えていることが一目で分かる。


「……また増えたか」


 誠志郎は静かに呟き、理性を保ったまま洗濯槽の中身を思い返した。


「……リラ」


「なに?」


「洗濯物、増やしたんですか?」


「うん、昨日のうちに動いたから」


 彼女の軽い返答に、誠志郎は詳しい事情を聞かないことにした。

 聞いたところで、想定外の情報が増えるだけだ。


 彼は洗濯槽の前にしゃがみ込み、中身を確認しようとして、そこで初めて問題の本質に気づいた。


「……これ」


「?」


「下着、入ってますよね」


 一瞬の沈黙。


「あ、入れた」


 あまりにも軽い返答だった。


「分類は……?」


「してない」


 誠志郎は目を閉じた。

 理性が、悲鳴を上げる一歩手前だった。


「……分けます」


「じゃあ任せる」


「そういう意味ではありません」


 彼は視線を洗濯槽の中だけに固定し、できる限り布として、物体として、情報を遮断しながら中身を取り出していく。


 タオル。

 シャツ。

 ズボン。


 そして、残った繊細な布たち。


「……」


「どうしたの?」


「……」


「誠志郎くん?」


 声をかけられるたびに、耳が熱くなる。


 彼はそれをそっと持ち上げ、速やかに別のカゴへ移した。


「……これは別で洗ってもらえませんか?」


「えー」


「えー、ではありません」


 返答は軽い。

 誠志郎の顔は知らぬ間に真っ赤になっていたが、口に出すと余計なことになる。


 そのとき、いつの間にか背後まで来ていたリラから、柔らかい圧が加わり、誠志郎の体が思わず硬直する。


「ちょっと見てただけなんだけど」


「……離れてください」


「今?」


「今です」


 リラは楽しそうに笑いながら、軽く体重をかけ直し、結果として誠志郎は洗濯機の縁に手をつき、腕で体を支えながら完全に動けない状態になる。


「……これは……」


「洗濯事故?」


「故意ですね」


「恋?」


「字が違いませんか?」


 数秒後、ようやく距離ができ、誠志郎は床から視線を上げることができた。

 耳まで赤くなっていることも、自覚している。


 昼過ぎ。


 干し終えた洗濯物を前に、誠志郎は妙な達成感を覚えていた。

 分類は完璧で、干し方も合理的。

 例の布に関しても、洗濯ばさみの位置と風向きが、過剰なまでに考慮されている。


「それ、どう?」


 ベランダに出てきたリラが、部屋着のまま、少し大きめのTシャツを揺らしながら腕を軽く上げると、物理法則に従って布が正しく仕事をしているのが、否応なく目に入った。


「……似合ってます」


 誠志郎は視線を逸らしたまま答える。


「照れてる?」


「評価は事実として述べただけです」


「顔赤いよ」


「日差しのせいです」


 即答だった。


 風に揺れる洗濯物と、少し暑い午前の空気の中で、今日も特別な事件は何一つ起きていない。

 ただ、誠志郎の平穏という概念だけが、洗濯物と一緒に、少しずつ削られていくのを、彼は確かに感じていた。

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