第7話 怪盗は、盗んだものを返しに行く
リラが狙う相手を選ぶ基準は単純で、それは金額の多寡でも知名度でもなく、ましてや警備の難易度でもなく、ただ一つ、その品が「本来あるべき場所から奪われたまま、正しく扱われていないかどうか」という一点に集約されていた。
今夜の標的の屋敷に並ぶのは、高価な美術品や宝飾品ばかりで、その中に混じるようにして、ひときわ控えめな輝きを放つ小さな宝石が、ガラスケースの隅に無造作に置かれている。
値段だけを見れば、ここでは目立たない部類で、実際、屋敷の主もそれを「まとめて買った中の一つ」としか認識していない。
だが、リラは知っている。
それが、ある職人が、亡くなった妻のために一生かけて仕立てた指輪から外された石であり、資金難の末に、本人の知らないところで手放されてしまったものだということを。
屋上からの侵入は静かで、夜の空気に溶けるように着地し、警備の死角を縫って屋敷の内部へと入り込むまで、一切の無駄がなかった。
展示室へ向かう途中、メンテナンス用のダクトに体を滑り込ませた瞬間、リラはほんのわずかな違和感に気づき、反射的に動きを止める。
進めないほどではない。
だが、進めば確実に金属と擦れる感触が、胸元に伝わってくる。
リラは息を殺し、片手で上半身を押さえながら、体を数センチ単位でひねり、角度を調整し、必要以上に動かないことを選ぶ。
怪盗としての技術と、構造上どうにもならない現実とが、静かなせめぎ合いを起こしていた。
「……侵入経路って、誰基準なんだろ」
心の中で呟きながら、ようやく抜け出したときには、着地と同時に小さく息を吐いてしまう程度には、集中力を削られていた。
減点ではあるが、失敗ではない。
誰にも気づかれていない以上、仕事は続行できる。
展示室の中央、ガラスケースの中にあるのは、直径数ミリの宝石。
派手な装飾もなく、説明書きも簡素で、ここでは完全に背景の一部になっている。
リラはケースを開け、宝石をピンセットでつまみ上げる。
光を受けると、派手さのない、しかし濁りのない輝きが指先に返ってくる。
——この石を削った人は、夜な夜な灯りの下で、妻の指に合う角度を何度も確かめていた。
——完成を見せる前に、その人はいなくなってしまった。
宝石を包み、代わりに用意していた重さも見た目も同じレプリカを収める。
警報は鳴らない。
誰も気づかない。
盗むのではない。
遅れてしまった返却だ。
脱出経路は、あえて遠回りを選ぶ。
先ほどのダクトは使わない。
効率よりも、確実性を優先する判断は、仕事として当然だった。
夜明け前、まだ街が眠っている時間帯に、古い工房の前へ一つの小包が置かれる。
差出人はない。
中には、あの宝石と、簡単なメモだけ。
——お返しします。
それ以上は、何も書かれていない。
仕事は終わった。
そう思っても、足は自然と、あの住宅街へ向かっていた。
例の窓は、今日も少しだけ開いている。
侵入角度を慎重に計算し、今度は最初から胸元を押さえながら、体を滑り込ませると、金属音ひとつ立てずに床へ降りることができた。
「……よし」
「お帰りなさい」
キッチンから聞こえる誠志郎の声は、朝の準備と同じくらい、当たり前の調子だった。
「今日の仕事は?」
椅子に腰を下ろしながら、リラは少しだけ間を置く。
「ちゃんと、持ち主のところに返した」
「満足度は?」
「……たぶん、高い」
「それなら成功です」
トーストの焼ける音と、コーヒーの香り。
怪盗としての夜と、何でもない朝が、同じ空間で静かに重なっていく。
小さな宝石は、本来あるべき場所へ戻った。
そして怪盗は、また一つ、自分が帰ってくる場所を当然のように受け入れてしまっていることに、まだ気づかないふりをしていた。
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