きみの声が聞きたい

もじぞう

《プロローグ》大学一年・夏

 保安検査場前、彼は困ったように言った。

「ごめん、夜澄やすみちゃん。僕、そろそろ行かなきゃ」

 時刻はちょうど一六時になろうかというところだった。彼のフライトは一七時半。国際線は遅くても六〇分前までに保安検査場を通過するべきと言われているけれど、見る限り今現在、保安検査場は混み合っていて、時間までに通過できるかわからなかった。わたしとは違い、いつだって計画的な彼のことだ。そんなぎりぎりの行動はしたくないだろうし、わたしだってこのハレの日に、予約した便に乗れるか乗れないかで彼を焦らせたくはない。だから本当にもう、抱きついたこの手を離さなきゃならない。そんなこと頭ではとうにわかっていたが、それでもわたしは彼から離れたくなかった。彼は可能な限りぎりぎりまでわたしと一緒にいてくれるはず、とうぬぼれて、保安検査場前でもうかれこれ十数分、往生際悪く彼にしがみついて離れないでいたのだけれど、ついにそのときが来てしまったようだ。

「夜澄、もういいでしょ」

 一緒に彼の見送りに来ていたわたしの双子の兄の片方が、見かねてわたしを彼から引き剥がす。こういうとき、体の小さいわたしは本当に無力だ。兄に少し力を入れて引っ張られただけで、実に簡単に、彼にしがみついていた手を離してしまうのだから。ああ、ちょっとくらい鍛えておけばよかったな。いつだって彼が守ってくれるのをいいことに、根っからの文化系だからと言い張って何の運動もしてこなかったことが、ここにきて今さらながらに悔やまれた。ちょっと引っ張られたくらいではびくともしないよう、握力くらいは鍛えておくべきだった。あ、でもそうしたら、筋肉ないくせに握力だけはあるとかナマケモノか(笑)、って鼻で笑われそう。双子の兄の、兄の方の兄に。それに、その気さえあれば簡単に引き剥がせるわたしをあえて一度も引き剥がそうとしなかったのだから、彼もやはり本心ではずっとこのままでいたかったのに違いない。


 行かないで。


 引き剥がされて彼と目が合ったとき、本心からの言葉が喉まで出かかった。でも、この言葉だけは言わないと、わたしは心に決めていた。だって彼がいつかかの地に向けて出発することは、わたしたちが出会うより前に決まっていたことだから。永遠にか一時的にかは別にして、いずれ彼とは離れ離れにならなければならない。それを知っていて一緒にいることを選んだのは、他の誰でもない、このわたしだ。それにわたしは彼の夢を他の誰より応援している。それは本当だ。だから行ってほしくないわけではない。むしろ行ってほしい。ただ、離れたくないだけだ。彼も一度だけ、離れたくないと言ってくれた。弱気なところを見せない彼がたった一度言ったその言葉が、まぎれもない彼の本心だとわたしは知っている。わたしは離れたくない。彼も離れたくない。だからちゃんと帰ってくる、そしたらずっと一緒にいよう。そう、約束した。彼は約束を守る人だ。必ず帰ってくる。だったら今はそれで十分じゃないか。それに言うなら、行かないで、じゃなく、一緒に行く、だ。わたしは彼に行ってほしくないわけではないのだから。でも一緒には行けない。近い将来同じ道を歩くために、今はまだ別々の道を行かなければならないのだ。

「……向こうに着いたら、連絡くれる?」

「うん。着いたら必ず連絡する」

「わかった。気をつけて、いって、らっしゃ、ぃ」

 送り出す言葉と一緒に、涙がこぼれた。わたしは今、彼に出発することを許可したのだ。これでもう彼は行っちゃうんだと思ったら、思っていた以上に寂しくて、悲しかった。思えば四年、もうすぐ四年半になるのか、出会ったときからわたしたちはほとんど毎日一緒にいた。間違いなく、病めるときも健やかなるときも、だ。彼はしゃがんで床に膝をつき、下からわたしの目を覗き込んだ。いつもと変わらない、優しい眼差しで。

「いってきます。体に気をつけて、……やりたいこと全部やってね、後悔しないように」

 うん、とうなずいたわたしに、にっこり笑って、よし、と彼もうなずいた。そして安心させるようにわたしの頭をなで、長い指で愛おしそうに優しく髪を梳いた。少しだけ笑みを含んだいつも通りの優しい彼の目を見ていたら、もうこれで本当にしばらくお別れだなんて信じられなくて、わたしは現実味のない現実を前に、ただただされるがままだった。

「冬休み、楽しみにしてる」

 言いながら、彼は両手でわたしの両頬の涙を拭い、本当に優しく微笑んだ。そして立ち上がり、わたしの後ろにいる双子の兄たちに話しかけた。

「ふたりとも、忙しいのに今日はわざわざ本当にありがとう。夜澄ちゃんのこと、くれぐれもよろしくお願いします」

「わかってると思うけど、俺ら、お前レベルのフォローは無理だからな」

「まあ、大丈夫でしょ。このあと家に送り届けるくらいはするよ」

「ありがとう、それで十分だよ」

 小さく笑いあい、短く彼らなりのお別れをしたあと、最後にもう一度だけ、安心させるように優しくわたしの頭をなでてから、彼は歩き出した。


 彼はとても背が高い。人の波の中で頭ひとつ分飛び抜けている彼は、ごった返す手荷物検査の列に並んでも、どこにいるか一目でわかった。係の人と何かやりとりしているらしく、動く口元、うなずきながら微笑む目元、鼻筋の通った横顔。わたしは彼の最後の瞬間を、目をそらさずに見つめ続けた。ボディスキャナーを無事に通り抜けたあと、彼はこちらを振り返って、ただでさえ大きいのに、さらに背伸びして大きく手を振ってくれた。お陰で彼の明るい笑顔がはっきり見えた。わたしも精一杯背伸びして、大きく手を振り返す。それを見て、彼は安心したように奥に向かって歩き出した。見えなくなるまで見ていたけれど、彼はもう、振り返らなかった。

 彼はいつも、どんな時でも、必ずわたしを助けてくれた。でも彼が行ってしまったら、もう、わたしを助けてくれる人はいないのだ。わたしがまた人混みでパニックを起こしても、もう一度濃い霧の中をさまようことになったとしても、わたしを恐怖や深い悲しみから助け出し、微笑みかけてくれる優しい人は、もう隣にいないのだ。自覚すると同時に、わたしの両目から、またぽろりと涙が落ちた。堰を切ったようにあふれてあふれて止まらなかった。棒立ちのまま静かにしゃくりあげるわたしに、兄たちは呆れているのだろう。わたしの後ろから、二人分のため息が聞こえてきた。


「夜澄、こっち。まだ間に合うかも」

 見かねた兄が、わたしを手招きする。保安検査場の横に透明なガラス張りの空間があり、覗き込むと眼下に下り階段が見えた。どこかで見たような人たちが、ときに無表情で、ときに時間に追われているのか焦ったような表情でどこからかやってきてはどこかを目指して階段を降りていく。その中に彼がいた。

 両手が無意識に動いて、彼とわたしを隔てる透明な板を叩いた。気づいて。お願い、こっちを見て。もう一度叩くと、視線を上げた彼と目が合った。最初、びっくりしたように目を丸くして。そして心底困ったように微笑んだ彼の目元は、少しだけ赤かった。

 彼は立ち止まって左手をわたしに見えるように持ち上げた。薬指に光る銀色の指輪。今は別々のわたしたちの道が近い将来ひとつになるようあらん限りの願いと誓いを込めて、ふたり並んで作ったものだ。今、わたしの薬指で小さなひとつ星を抱いて金色に輝いている指輪は彼が作り、彼の指で輝いているあの指輪は、わたしが作った。それを右手の人差し指で示しながら、彼はゆっくりと口を動かした。


 あ い し て る。


 わたしの後ろで見ているのであろう兄たちにか、それとも同じように出国審査に向けて階段を降りていく他の旅客に配慮したのか、声は出ていなかったけれど。はっきりと彼の言葉を理解したわたしは、もう立っているのもやっとだった。彼と私たちを隔てるガラスの板に手をついて、止まらない涙に四苦八苦しながら、やだやだ何でそんなこと言うのと弱く首を横に振るだけで精一杯だった。愛してるなら、どうして三年も離ればなれになるのにそうやって笑顔でいられるの? 愛してるなら。ねえ、本当に愛してるなら。


 連れてって。


 とても小さく、けれど確実に、声が出た。

 わたしの声が届いたのか、それとも口の動きで理解したのかはわからない。だけど彼は小さく首を横に振り、諦めにも似た顔で微笑んだ。


 ごめんね。


 小さく息をついて何かを堪えるように静かに目を伏せ、ふっきるように足早に階段を降りていった彼を冷静に見送り、ガラスの板をコンコンと軽くノックしながら、双子の兄の、弟の方が言った。

「これ、よくないよな。せっかく張った虚勢がここで全部台無しにされるんだぜ」

「こっちはこっちで盛大にとどめ刺されるしね」

「まじでそれ。双方刺し違えてオーバーキルもいいとこ。ていうかお前、こんなとこ知ってても教えんなよ夜澄に」

「いやあ、ねえ。最後に一目と思って」

「完全に裏目なんだよなあ気遣いが」


 ほら、行くぞ。いつまでも泣いてないで前見ろ。

 何か甘いものでも食べて帰ろ。おごるよ。


 未だガラスの壁を前にしゃがみこんで泣きじゃくるわたしを、兄たちはそれぞれ彼ららしい言葉で励ましてくれた。ああ、そうだ。日本に残るわたしには、寄り添い励ましてくれる家族や友達がいる。明日からは毎年恒例、彼の実家にアルバイトに行くことにもなっている。大学の課題だってやらなくちゃ。いつまでも泣いていられない。いつもの毎日が待ってるんだ。

 ——でも、じゃあ、彼は? 家族も友達もいない外国に旅立った彼には、誰がいるの? 慣れない環境、何もかもが初めてで手探りの毎日の中で、『いつもの』なんて何もない中で一人がんばる彼を、一体誰が励ますの? 

 彼の赤くなった目元を思い出して、わたしはまた泣いた。



 見送らなくていいよ。

 そう、彼には何度も言われていた。見送られるのは苦手、どんな顔をしたらいいかわからないから、と。でもきっと本心は、泣いているところをわたしに見られたくなったからに違いない。思えば彼は、出会ったときから彼は、わたしには笑顔だけを向けてくれていた。

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