『天正のアルキテクト 〜法隆寺の御曹司に転生した現代建築家、戦国の世に「モダニズム」と「都市計画」を持ち込んで家康の天下を設計します〜』

木工槍鉋

プロローグ 重力は嘘をつかない

重力は、決して嘘をつかない。


どんなに美しい言葉で飾ろうと、どんなに神仏の加護を祈ろうと、構造計算を無視した物体は、必ず大地へと墜ちる。


 その冷徹な物理法則を、中井謙は脊髄が砕ける音と共に理解していた。視界を埋め尽くす土埃。ひしゃげた鉄骨と、崩落した古寺の梁。部下を突き飛ばした代償として背中に受けた、数トンの質量の感触。 それは痛みというよりも、圧倒的な「拒絶」だった。お前の設計は間違っていたのだと、建築の神に断罪されたような絶望。


(……いや、違う)


 意識の泥沼の中で、彼は否定した。 間違っていたのは設計ではない。現場の「油断」だ。緩んだボルト、省略された点検、慣れという名の慢心。建築を殺すのは、いつだって重力ではなく、人間の傲慢さだ。


 ――だとしたら。 今、鼓膜を震わせているこの音は、なんだ?


 カーン、カーン。 乾いた音がする。鉄が木を穿つ音だ。 だが、そのリズムは乱れている。不揃いで、荒く、何より「死」の気配を孕んでいる。


 謙は、重い瞼をこじ開けた。無機質な病院の天井ではない。煤けた木組みの梁と、腐りかけた荒壁。そして、鼻をつくような獣の臭いと、饐(す)えた汗の臭気。身を起こそうとして、自分の手が視界に入る。 小さい。そして、木の根のように節くれ立ち、無数の傷と泥に塗れている。三十八歳の現場所長の手ではない。十代半ばの、しかし過酷な労働に晒され続けた少年の手だ。


「……若(わか)。やっと起きたか」


 野卑な声に顔を上げる。逆光の中に、小柄な人影があった。猿のように痩せた少年が、不安げにこちらを覗き込んでいる。ここはどこだ。問いかけようとした瞬間、彼の視線は少年の肩越し、開け放たれた扉の向こうへと吸い寄せられた。


 世界最古の木造建築、法隆寺。だが、それは謙の知る静謐な文化遺産ではなかった。五重塔の修繕現場。そこに組まれているのは、腐りかけた丸太を荒縄で縛っただけの、あまりに粗末な足場だった。手摺はない。巾木(はばき)もない。昨夜の雨で濡れた丸太は、黒光りする氷のように滑りやすそうだ。


 その先端、地上十数メートルの虚空に、一人の男が立っていた。 命綱など、一本もない。


 ヒュッ、と喉の奥が鳴った。プロの建築家として、現場監理として、その光景は「処刑台」にしか見えなかった。一陣の風が吹く。男の体がぐらりと揺れる。謙の脳裏に、前世の最期がフラッシュバックする。潰れる肉体。飛び散る赤。二度と戻らない温もり。


「降りろォォォッ!!!」


 喉が裂けんばかりの咆哮が、斑鳩(いかるが)の朝霧を切り裂いた。猿が腰を抜かし、周囲でたむろしていた薄汚れた孤児たちが、何事かと飛び起きる。謙は――いや、この時代の肉体を持つ「中井正清」は、裸足のまま土間を飛び出した。鋭利な砂利が足裏に食い込むが、痛みなど感じない。


 足場の下まで疾走し、支柱を拳で殴りつける。 「鉄(てつ)! 聞こえているか! 今すぐ作業中止だ! 降りてこい!」


 遥か頭上、巨漢の少年――鉄が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で見下ろした。 「ああん? 何言ってんだ若。ビビってんのか? こんなん、俺たちの日常じゃねえか。落ちたら落ちたで、運が悪かっただけだろ」


 運。その一言が、正清の中にある導火線に火をつけた。


「運だと?」正清の声が、地を這うような低音に変わる。梯子を一段飛ばしで駆け上がり、鉄の胸倉を掴んで安全な床板へと引きずり倒す。


「ふざけるな。建築は博打じゃねえ」


 正清は、集まってきた孤児たちを睨みつけた。どいつもこいつも、ボロ雑巾のような身なりだ。親もおらず、家もなく、明日の食事すら保証されていない「捨て石」のような子供たち。彼らの瞳には、自分の命に対する諦観がこびりついている。


「お前ら、自分の命を安い瓦一枚と同じだと思ってやがるな」


 静まり返る現場に、正清の声だけが響く。


「いいか、よく聞け。俺たちの仕事に『完成』なんてものはない。今日作った最高の柱も、百年経てば腐る。だから直す。もっと良い技術で、もっと強い木で」


 正清は、震える鉄の肩を強く握りしめた。


「俺たちが死んだら、誰が『次』を作るんだ? 今日の失敗を、明日の糧にするのは誰だ? 運任せで死ぬってことはな、お前らが作るはずだった未来のすごい建築を、この世から消し去るってことなんだよ」


 鉄が、戸惑ったように目を泳がせる。自分たちの命に、未来を作る価値がある。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったからだ。


「……でもよ、若。俺たちは学もねえし、道具もボロだ。どうすりゃいいんだよ」


「考えろ」


 正清はニヤリと笑った。その表情は、高潔な建築家のものではなく、泥水すすってでも生き延びようとする、野心的なガキ大将のものだった。


「楽をするために、死ぬ気で頭を使え。足場が怖いなら、怖くない足場を作ればいい。寸法が狂うなら、狂わない定規を作ればいい。昨日の自分より、半歩でもマシな仕事ができりゃ、それは立派な『進化』だ」


 正清は足元の土に、指で一本の線を引いた。それは法隆寺の優美な指図ではない。もっと泥臭く、しかし力強い、生存のための設計図。


「さあ、寄り合いだ。中井組の新しい普請を始めるぞ」


 朝日が差し込む。その光の中で、現代の知能を持つ棟梁と、戦国の孤児たちが額を寄せ合う。それは、後に天下人の野望さえも「施工」することになる、若き職人たちの産声だった。

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